院長の日記
2008.11.18 人間、万事塞翁が馬
「2008.10.25 人生はペナントレース?」と似たようなテーマとして「人間、万事塞翁が馬」というお話があります。
「人間」は「にんげん」ではなく「じんかん」と読みます。
「世間」を意味しています。
(今、色々と話題の)中国の古い話ですが、塞というおじいさんの所に馬が来ました。
周りの者は馬が来たといって喜びましたが、おじいさんは喜びませんでした。
その後、息子がその馬に乗っているときに落馬して足を怪我してしまいました。
周りの者は心配しましたが、おじいさんは今度は心配しませんでした。
するとその国が隣の国と戦争になり、多くの若者が出兵して戦死しました。
しかし、おじいさんの息子は足が悪かったために戦争に行かずにすんで、死ぬことはありませんでした。
結局何が良くて何が悪いかは、後にならないと分らないということです。
実際、宝くじにあったって2億円手に入った人が、その大金をめぐって殺害されたという事件が最近ありましたし、逆に病気になったために出張に行けなくなった人が、出張でその人が乗るはずだった飛行機が墜落してしまったのに、病気のおかげで命拾いしたという事も聞いたことがあります。
どうせ生きるのなら、苦よりは楽が良いですよね。
でも、「良い悪い」や「苦楽」のように比べることを意識し、片方の「楽しみ」ばかりを望んでいると、結局その反対の「苦しみ」からも逃れられていないと思います。
「楽」を考えると「苦」も消えません。
本当は、比べてばかりいるではなく、自分の現在の人生の状況と面と向かい合う事が大切なのだと思います。
って、これ書いてて思いましたが、昔このネタがらみを書いていました。
てなわけで、今アメリカ映画界で流行っている?リメーク版や、アーティストのカバー曲と同じとお考えください。f^_^;
2008.11.07 健康という奇跡
病気を考える時に、地球全体または国、地域レベルで考えると理解しやすいかもしれません。
細菌やウィルスの感染はいわば外敵の侵入です。
また、癌はある地域に蔓延っているテロリストなどの人たちといえるでしょう。
実は癌などの悪性化は、私たちの体で日々起こっていますが、癌が組織として成り立つためにはある程度の数が1箇所に集まらないとできないのです。
数個のがん細胞ができたとしても、それらは巡回する白血球という警察官が倒してしまいます。
そういう意味では白血球はアメリカっぽい警察でしょうね。日本だと銃を発砲するだけで、問題になりますから。しかし、体レベルで考えるとそれだと手遅れです。
銃の発砲を極力しないようにする日本の警察のような対応は、どちらかというと免疫力低下の状態に相当します。
そのような時期が続くことによって癌が組織として機能してしまうことになります。
ある本には1ミリ立方の大きさの癌組織ができるためには7年かかることもあるそうです。
局所の組織の機能不全、いわば中央からの指令に対して言うことを聞かない人たちの一時的な暴走状態は、アトピーやアレルギー、自己免疫疾患です。
アレルギーは、日ごろから港や空港に出入りする者を誤認逮捕する現象といえます。
アレルギー性鼻炎の鼻水は、城や砦の戦いに例えると良いでしょう。侵入できないようにいわば水攻めをしているのです。
アレルギー性結膜炎の涙も同じです。
リューマチなどの自己免疫疾患は、日ごろの身内、仲間を誤認逮捕する現象です。
自律神経失調症というのは、交感神経の機能亢進といういわば「非常事態宣言」を行なった国のようなものです。
戦争や内乱が起こっている国や地域は、治安が悪くなります。
同じように治安が悪くなった状態で、悪事を働こうとする人間が増える状態が癌といえます。
また、警察が手薄になりますから、外敵が来ても対抗できません。疲れているときやストレスが強い時に、出来物や吹き出物が出やすいのはこういう理由です。
ドサクサで間違えて民間人を捕まえるのが自己免疫疾患で、間違えて外国人を捕まえるのがアレルギーです。
逆に、自律神経失調症ではない普通の状態は、 副交感神経が優位になった「平和宣言」の状態です。
平和な時には、警察も機能しますし、ちゃんと巡回していますので悪事をはたらこうとする者たちも身動きが取れません。だから炎症が起きないのです。それから経済などの物流も支障がありません。だから、胃腸の動きが良くなり消化吸収が速やかになり ます。
人間が文明を持ってからという条件付ですが、過去の歴史で地球全体の国や地域がまったく平和であったという時代があったでしょうか。
私の印象ではほとんどないと思います。
地球上のどこかで何か戦争があるのが、この日常でしょうね。
だとすると、同じことが人間一人の体の中にも起こっているとすると、ある意味では無理もないかもしれません。
逆に言えば、「健康」といえる状態は、地球全体で見れば大きな戦争や紛争がないということですから、本当に素晴らしいこと、有難いこととは思えませんか。
「健康である」ということは、それだけでいわば「奇跡」なんです。
2008.11.05 うちの子いい子だもん
昔私が勤めていた病院での話です。
外来にいた看護師の方は、同僚との会話で息子さんの話になると、いつも「うちの子、いい子だもん」と言われていました。
でも、その息子さんですが同僚の看護師さんたちの話では評価はイマイチなところもあったみたいで、暴力事件など警察沙汰もあったそうです。
ただ、その一件も友人を助けるためだったそうで、正義感の強いお子さんだったともお聞きしました。
私は、むしろその方が母親として子供を信じているその態度に感心したのです。
私から見ていても、別に子離れできていないとか、お互いの依存がつよいというわけでも決してないのです。
「私は母親として、最後の最後まで子供を信じてる」でした。
私も、今ではこの言葉を心の中でよく使います。
決して「私にとって都合の良いことをするだけの子供」、「世間的に良い子」という意味ではありませんよ。
休みの日はダラダラと寝ていますが、「うちの子いい子だもん」
ゲームばっかやっていても、「うちの子いい子だもん」
兄弟喧嘩ばっかりやっていても、「うちの子いい子だもん」
禅で「日々是好日」という言葉があります。
これは単に「毎日が良い日なのだ」というだけではないと思っています。
「たとえ何が起ころうともそれを受け止めなさい、災難があってもね」という決意なんだと思っています。
良寛さんはこう言っていたそうです。
「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候。死ぬる時節には死ぬがよく候。これはこれ災難をのがるる妙法にて候。」
災難にあわないためには、災難の渦中にいればよいというのです。
ここまでの決意を持つのはすごいですね。
まあ、微々たるレベルですがそれにちょっとだけ近いかなって感じです。
何とかなりますよ、と思いたいです。
誰でも苦しい時はある、もしくは来ると思います。
その時に、その苦しみすら味わうことができるとなると、おそらく「苦しみ」ではなくなるのでしょうね。
私はまだまだそれすらわかりませんが、最近のニュースでの小室さんのことを聞くと、なんかそう思うのです。
2008.11.01 死者のベル
昨日はハロウィーンでしたね。
それにちなんで、それっぽいネタです。
「死者のベル」について、ある本で読みました。
先にお詫びしておきます。m(_ _)m 理由はそのうちわかります。
おそらく私だけでなく、火葬をおこなう風習である日本人にはちょっと気味の悪い話になります。
「死者」、「棺」、「ベル」と聞いただけで嫌な人はスルーしてください。
でも、「愛」も出てきますから。
もう通信が発達してからのことですが、イギリスで「死者のベル」という商売があったそうです。
棺の中にベルが備えられていて、コードで家の中につながっています。 これは死者が蘇った時にこのベルを押してもらえれば、残った家族がわかるので墓地に行って棺を開けるという手順になるのだそうです。
これは実際にあった商売だそうですが、本当にベルがなったのかどうかまでは知りません、というか知りたくないですね。(^_^;)
やはり土葬を行なう風習だからこそ、ありえるのですね。
私はその気持ちはわかりますが、愛する人が亡くなっても、葬儀も終わったあとで何日もたってから、蘇ってほしいとまでは思わないのです。
冷たいでしょうか。
でもね、神話にもあるじゃないですか。 イザナギノミコトは、死んだイザナミノミコトに会いに黄泉の国に行きます。 そこでイザナミノミコトの姿を見たときに、その死んで腐敗した体をみてしまい、怖くなって逃げ帰ります。
私にとって、このエピソードは、たとえ愛する人であっても、亡くなったらそれを受け止めて、悲しみを乗り越えてしっかりと生きていきなさい。
その亡くなった人のことばかり引きずって生きるのは、自分にとっても、なくなった方のためにもよくありませんよという解釈です。
死因は何であれ、亡くなった以上はそこからは戻れないのです。
そういう自然の掟があるのですから、それは侵してはいけないのです。
所で、ちょっとだけ想像してみてください。
たとえば土葬だと仮定してですが、亡くなった方の棺の中にベルが備えてあるとして、それが深夜3時ごろに鳴った!・・・・
ひっそりと静まり返った家の中で、その音が響いている・・・
(・_・;)
シャベルを担いで、エッさ・ホッさとお墓のほうへ・・・・・
迎えに行きますか?
「鉄腕アトム」に出てくる天馬博士なら行くのでしょうね。アトムを作ったくらいだし。
外国でもホラーの短編小説でWWジェイコブズの「猿の手」という物語があります。
ご興味があればお読みください。創元推理文庫の怪奇小説傑作集1に入っています。
ここでネタばらしはしませんが、すっご~く面白い?ですよ。
そういえば、他にもこのジャンルの小説としてスティーブン・キングの「ペットセメタリー」がありますね。
これは映画にもなったし有名ですね。
ホラーの好きな人には、たまらないでしょうけど・・・・
私はね~ (-.-;)
2008.10.28 瞑想の意味
前回にもちょっとだけ触れましたが、瞑想の意義についてもう少し私の考えを追加します。
今日二つ目ですが、内容的に前回のとあわせてセットにした方が良いと思いまして。f^_^;
まず大前提としてですが、基本的に「思考」は必要なのです。
しかし、使用法を誤る人が結構いるのです。
たとえばクヨクヨといつまでも悩んでいるというのは、同じ思考回路だけを消耗してしまいます。
するとその思考によって労働を強いられた神経細胞がオーバーヒートして疲弊して死滅してしまいます。
そのため、脳を調べるとCTで脳の一部が萎縮してしまう所見が認められたりするそうです。
昔の人はうまいことを言いました。
「下手な考え 休むに似たり」
そのために、「不要な思考はやめましょうよ」という方針の一法として瞑想や座禅があるのではないでしょうか。
これらによって、同じ神経回路を過度に使用しないようにすることと、別のルートも開発することができるからです。
身体を鍛える場合にも、どっか一部だけを酷使するような運動は、長年行なうと故障が多いですね。
全身をバランスよく鍛える方が故障しにくいと言えるでしょう。
姿勢でも、腰など一部に負担がかかるような姿勢では、痛めてしまいますが、背骨全体にできるだけ均等に負担をかけるような姿勢にすれば腰を痛めにくいのとも似ていますね。
おそらくですが、私は同じ脳の神経回路ばかり使っていることも、将来の認知症につながると思っています。
なぜなら、同じ神経回路ばかり使うと疲弊して萎縮するのですから、年をとってそれらの神経回路が使えなくなった時に、他の神経回路が発達していないと、「思考停止」になってしまうのは想像に難くないですよね。
ですから、自分の考えだけに固執するのではなく、いろんな考えに耳を傾け、自分とは反対の考え方も認める精神が、ボケ予防の一つになるとは言えないでしょうか。
まさに「清濁併せ呑む 大人(たいじん)」です。
具体的なヒントですが、「ワンパターンの日常生活からは脱却しましょう」です。
ワンパターンは同じ思考回路しか使いません。
ですから、脳が楽をしてしまうのです。
脳が楽をすることで、運動不足ならぬ「思考不足」を招き、この結果が認知症ではないかと考えているのです。
そうならないためには、やはりその都度脳に刺激を与えることですね。
それは「思考せざるを得ない」状況に、脳を追い込むのです。
そうすれば嫌でも頭を使うことになります。
今「嫌」という言葉を使いましたが、理想的には「楽しみながら 」が良いと思います。
その都度、極端にいえば初めてのように、ワクワク・ドキドキしながら、生活することが良いといわれるのはそういう意味なんだと思います。
それから好奇心旺盛であることですね。
多趣味も良いかも。
自分にできる範囲で良いのです。
これらは、そんなに極端な考えとは思っていない今の私です。(^_^;)
2008.10.28 OH!脳
他の方のブログを見ていても、いつも感心することがあります。
それぞれが、いろいろな見方をしている。
ただ、共感することがあるのは、同じ人間社会で生きていくルールを踏まえているからでしょうね。
それにしても、脳ってなんでしょう。
デカルトにして、「我思う ゆえに我あり」と言わしめた張本人?です。
脳の機能の一つに「思考」があります。
精神世界、宗教の世界でも、「思考偏重」を問題視することがありますし、瞑想や禅はいわゆる雑念などを主とした「思考」を一時的にしろ脳からなくそうとする行為です。
これは私見ですが、これら瞑想や禅の目的はコンピューターにたとえると脳の「再起動」であり、「デフラグ」だと思っています。
同じような目的で行なっているのが、毎日定期的に行なっている「睡眠」です。
そして、その作業中にみるのが「夢」であり、しゃべるのが「寝言」。
歩くのが「夢遊病」?
これはよく外国アニメで見かけます。f^_^;
これは余談ですが、そのシーンはたいてい両手を肩の高さにまっすぐ前に伸ばして、足も膝で曲げずに伸ばしたまま歩きますね。 あれも一種の固定イメージですね。
閑話休題。
要するに睡眠時間が短かったり、取らないでいると、「誤作動」したり「フリーズ」しちゃうのです。
これらがいわゆる精神病やノイローゼにつながるのです。
所で、私は思考は別に悪いものとは思っていません。
思考は、包丁と同じです。
うまく料理に使うこともできるし、殺傷に使うこともできるからです。
思考は、車の運転と同じです。
たとえ正しい道を走っていても、安全運転で走ることもできれば、スピードオーバーや余所見運転、飲酒運転は事故につながる可能性がおおきいのと同じです。
思考は、体力トレーニングと同じです。
自分の体力に合わせて、トレーニングをしないとかえって体を壊すのと同じです。
案外、私たちは日ごろ「脳」のことを考えていませんよね。
自分の顔を、リアルタイムに自分では見ることができないのと同じですね。
まあ、日ごろから付き合っているといえば、神経内科医、脳神経外科医、精神科の先生でしょうか。
でもね、ふと考えてみると、深いですよ。
だから、健康に注意して「思考」しましょう。(^_^)v
2008.10.25 人生はペナントレース?
私は前にも「人生の意味・価値」について書きました。
人生に意味はないと書きましたが、厳密に言えば人生について「今考える」意味はないということになります。
そんな暇があったら、まずは目の前のことをやれよ!と言いたいくらいです。
そのことについて、最近具体的な例が見つかりました。
それはペナントレース1位を逃し、さらにCS第二ステージにも出られなかった阪神です。 (-.-;)
前半はぶっちぎりでトップを走っていたのに、最後はあの結果に終わりました。
たしか7月だったかその頃にはオーナーとの話で来期も監督をするという話も出ていたように記憶しています。
それがどうしたのか、後半だけだとガタガタでした。
「勢い」に欠けていました。
前半の時期に、誰がこの結果を予想したでしょうか。
まさに、「勝負は下駄を履くまでわからない」です。
今の私が人生についての意味、価値を言えないのは、野球の試合またはペナントレースと同じだからです。
まだ私は9回まで来ていないのですから(多分、f^_^; )
言うことができない「今」の段階では「ない」と同じです。
少なくとも考える必要はない。
そういえば、野球選手も試合後のインタビューで言っていますね。
「とにかく、今は一試合一試合を大事にしていくだけです」ってね。
最終的にその試合を評価できるのはゲームセットになってからですし、ペナントレースから見れば最終試合が終わってから、その結果についての総評をすることになります。
途中では、最終的な評価はできません。
会社の経営で、帳簿の監査ができるのは、年度末に閉めてからです。
その理屈でいくと、今の人生の意味、価値、評価が言えるのは、正確には死んでから、あの世(もしあれば)で評価することになるのですが、わからないのでとりあえず死ぬ間際でしょうね。
お釈迦様は「人生は苦だ(※)」と言われたそうですが、私は「総じて良かった」とか「総じて楽しかった」と言いたいです。
まあ、逆に言えばそう言いたいために今を生きているのかも。(^_^;)
(※正確にはお釈迦様の言われた「苦」は思い通りにはならないという意味だそうです)
ちなみに、人生というゲームでは、5回を過ぎたら雨天コールドゲームが成立するという野球とは違い、試合が始まれば1回でも雨天コールドゲームが成立するという点があるとも思っています。
2008.10.22 なぜか今感じること
ダンマパダ(真理のことば)は、日本では「法句経」として読まれていますが、その原文であるダンマパダは仏陀の言葉を弟子たちがまとめたものとして、東南アジアでよく読まれているそうです。
岩波文庫から出ている「真理のことば 観興のことば」にもいろいろなことが書いてあります 。
短いものばかりですが、423もあります。
今の世の中ですが、世間を見ていると、このダンマパダの中に何か感じる文がいくつかあります。
旅に出て、もしも自分より優れた者か、または自分にひとしい者に出会わなかったら、むしろきっぱりと独りで行け。
愚かな者を道連れにしてはならぬ。
怨みを抱いている人々のあいだにあって怨むことなく、われらは多いに楽しく生きよう。
怨みをもっている人々のあいだにあって怨むことなく、われらは暮らしていこう。
悩める人々のあいだにあって、悩み無く、大いに楽しく生きよう。
悩める人々のあいだにあって、悩み無く暮らそう。
むさぼっている人々のあいだにあって、わずらいなく大いに楽しく生きよう。
むさぼっている人々のあいだにあって、むさぼらないで暮らそう。
自己こそ自分の主である。
他人がどうして自分の主となろうか。
自己を良くととのえたならば、得がたき主を得る。
世の中は泡沫(うたたか)の如しと見よ。
世の中はかげろうの如しと見よ。
世の中をこのように観ずる人は、死王も彼を見ることがない。
勝利からは怨みが起きる。
敗れた人は苦しんで臥す。
勝敗をすてて、安らぎに帰した人は安らかに臥す。
額面通りに理解しないといけないということはないと思います。
大事なことは、自分が、今、何を感じるかです。
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