院長の日記
2007.11.22 「歩き方」のその後
目の次は膝の話です。
3月20日の日記で膝のことを書きましたが、その後日談です。
あの後も歩き方を矯正していましたが、かなりよくなりました。
無意識に歩いているとまだ前の歩き方に近づいていますので、意識しながら歩いています。
足がまっすぐに前に出るように歩くと、背筋もシャンとします。
以前は、靴底の減り方も極端でした。 足裏の外側が極端に磨り減っていましたから。 おかげさまで今ではそれが均等に減るようになってきたんです。 これが、客観的な証拠かな。
このように自分の身体に意識を保ちながら生活することを始めてから、精神的にも自分が目指している方向に進んだ気がします。
駅から自宅まで以前はバスを使うことも多かったのですが、今は歩いています。
するとよく見えますね。 全然世界が違うくらいです。
歩く」だけでもいろいろ感じます。
お釈迦様のお弟子さんで、名前は忘れましたが庭の掃除をし続けて悟った方もおられるくらいですから、馬鹿にはなりません。
あれから一つわかったことは、歩き方はひとつじゃないということ。
今日、歩いていて歩きかたのコツがわかったと思っても、別の日ではそうではない気がしてきます。
要するにその時の疲労度や体の調子、気分のあり方などで変わってくるのです。
寒い日では、筋肉が最初硬くなっているから特にこれからの季節は違います。
「当たり前」といえば、当たり前なのですが、当たり前に気付けた自分に一つだけ「エライ!」といっておきます。 おだてると乗ってくるので。
「歩き方が日々変化する」ということは、感情の変化と似ていませんか。
2007.11.21 もっと目を動かしましょう
今日のテーマは「目」です。
私は近視であり、遠視も加わってきました。
そのため、視力がさらに落ちないようにちょっとした訓練しています。
これは太平洋戦争のときにゼロ戦に載っていた人が戦後書いていたことです。
戦争中に飛行士は視力を落とさないように、日々訓練していました。
それは眼球を動かすことです。 左右に10~20回、上下に10~20回、右回りと左回りを10~20回ずつです。
最初は目の奥が若干疲れて痛くなるかもしれませんが慣れてくると痛くなくなります。
現代の人たちは、真正面の物を見るようにして、視野の周辺をあまり意識していないように思います。
顔の位置はそのままで眼球を周辺に意識してみるようにするとそれだけでも視機能は上がると思います。
太平洋戦争の頃は、まだレーダーが発達していなかったため、肉眼で敵機を探していました。 飛行士にとっては、敵より早く相手を見つけないと命取りになるから必死だったそうです。
これで視力が絶対によくなるという保証はありませんが、少なくとも飛行士は信じきることで視力が維持できたのではないかと思います。
私自身はすこしよくなりました。 遠視が結構改善しましたし、近視も少しよくなったようです。
あながち、馬鹿にはできませんよ。
2007.11.20 鈍刀を磨く
私が好きな詩人に坂村真民さんがいます。
坂村さんの詩のなかで 気に入っている詩をひとつ
「鈍刀を磨く」
鈍刀をいくら磨いても 無駄なことだというが
何もそんなことばに 耳を貸す必要はない
せっせと磨くのだ
刀は光らないかもしれないが
磨く本人が変わってくる
つまり刀がすまぬすまぬと言いながら 磨く本人を
光るものにしてくれるのだ
そこが甚深微妙(じんじんみみょう)の世界だ
だからせっせと磨くのだ
私も鈍刀を持っています。
鈍刀は古くなった刀
使い古した刀
それは言い換えれば、自分のこと
人生の中でだんだん角が取れていく
刃が鈍くなった分だけ、見えないものが増えている
私は、死ぬまで磨きますよ、おそらく (^_^;)
はっきりとした理由なんてありませんけどね。
2007.11.19 「話せばわかる」は幻想
「十分に話をすれば、分かり合える」というのは真理ではないと思っています。
どんなに長時間話し合っても平行線状態が続くという場合もあるからです。
例えばスピリチュアルな世界については賛否両論ありますが、あれもいくら話し合ったからって分かり合えるとは思えないのです。
他にも「宇宙人は存在するか」「UFOは存在するか」などなど。
そういう平行線になるような対話については、私はどうしても距離をおいてしまう傾向があります。
もしも何かのご縁で「あるテーマ」について語り合うことがあれば語りますし、なければそれだけです。
すべてタイミングです。
物事には「今が適した時」という時期があると思います。
例えば私はスピリチュアルな世界を肯定していますが、その立場から言うと、今わからない人たちも、この先にはいつかわかると思うのです。
それは今世ではないかもしれませんが、その時にわかればよいと思うのです。
ですから、今世では否定論者であってもかまわないのです。
というか、「人生舞台劇説」によれば、ただ今現在に「反対論者の役」を演じているだけなのだと思っています。
そういえばキリストの使徒の一人であるパウロはもともとはキリスト教を迫害する側にいましたが、キリストに奇跡を見せられて回心してキリスト教徒になり、熱心に布教に努めています。
話せば分かるかといっても、本人側の意思も影響するという意味で、もう一つ。
以前に勤めていた職場で、ある上司が「遅刻常習犯に遅刻するなといっても無駄だ。」と言っていました。
「常習犯」は言われてもやってしまうから「常習犯」になってるのです。
もう本人の自覚はあるのです。その上でやっちゃうのです。
ですから、私も同感で、いくら言ってもよほどのことが無い限り治らないと思います。
遅刻がいけないとわかる人は、もし遅刻したとしても何らかの事情があったからで、反省して遅刻をしないように努めているからです。
そのような人には言わなくてもわかっているのです。
2007.11.17 マッチ1本 妄想のもと
誰でも、何かのきっかけでカチンとくる、ムカッとくることはあります。
大概は、些細なことですね。
問題はムカッときたそのあと。
風が吹いたあとの竹林のごとく、静寂に戻る場合もあれば、どんどん燃え広がり山火事に発展することもあります。
自分に降りかかったことが原因でもしも「怒り」がおきたら、その怒りは最初はいわばマッチ1本の火位の程度です。
だから、マッチの火もそのまま燃えて尽きてしまえばそれだけで済むのですが、もしも燃えるものの傍にあったら、どんどん燃え広がります。
状況にっては山火事にさえ発展するのです。
多くの場合、自分の心の中で、一つの出来事を勝手に解釈して、大抵の場合良くない方向に考えてしまい結論を出してしまいます。
それによって、相手の評価、印象を決めています。
しかし、その印象は自分が作った妄想というフィルターを通してのことです。
自分の心の中にマッチの火を広げないようにするには、どうするかということになりますね。
1 自分で吹いて消す
2 燃える物を傍には置いておかない
3 燃え尽きるのを待つ
マッチの火の場合は、具体的にわかりますが、心の場合はどうしましょうか。
たまには問題提示のままでおくのも一つの趣向ですね。(^O^)
2007.11.14 神への挑戦
「人生は思ったとおりに進んでいくと精神世界の本には書いてあるのに、何故うまくいかないことが多いのだろう?」という疑問や、悲劇が起こったときの「この世に神さまはいないのか?」という訴えに対して、どう答えていいのかわからない時もあると思います。
パウロ・コエーリョは、「第五の山」で彼なりの、それに対する一つの答えを書いています。
この作品は、彼の著書の中でも特に宗教色が強いです。まあ、旧約聖書に出てくる預言者エリヤのストーリーですから当たり前といえば当たり前ですね。
「神」や「主」という言葉に抵抗を感じれば「仏」でも「大いなる存在」でも構わないと思います。 頭の中で置き換えて解釈してください。
今回はほとんど抜粋ですので、長いです。 あえてそうしました。
得るものがかなりありました。 またこれに関しては、いろいろと自分なりに書いていきます。
『悲劇は起こる。その理由を発見し、他人を恨み、それが無ければ自分の生活がいかに違ったかを想像することもできる。しかし、そんなことはみな大切ではない。
悲劇は起こる。だから、そのまま受け入れるのだ。そこから先は、自分の中の恐怖を脇に置いて、建て直しを始めなければならないのだ。
(中略)
時には神と争うことも必要なのだ。
人間は誰でも、その人生で悲劇に見舞われることがある。住む町の崩壊、息子の死、誤った告発、病気による体の障害などだ。
その時神は、自分の質問に答えるよう、人間に挑戦するのだ。
「なぜ、お前はそんなにも短く、苦しみに満ちた一生にしがみついているのだ?お前の苦悩の意味は何なのだ?」
(中略)
神は公正ではないと感じて、存在の意味を求める者は、自分の運命に挑戦する。 天から火が降りてくるのは、その時である。それは人を殺す火ではなく、古い壁を引き倒して真の可能性をそれぞれの人に知らせる火なのだ。
勇敢な者は、古くなったものに火をつけ、たとえ、どんなにつらくとも、神をもふくめてすべてを捨てて、前進し続けるのだ。
(中略)
神が望んでいるのは、一人ひとりの人間が、自分の人生の責任を自らの手に握ることだからだ。
主は自分の子供たちに、最高の贈り物を与えているのだ。 それは自らの行動を選択し、決定する能力である。
(中略)
心に聖なる炎を持つ男女だけが、神と対決する勇気を持っている。 そして彼らだけが、神の愛に戻る道を知っている。
なぜならば、悲劇は罰ではなくて挑戦であることを、彼らは理解しているからである。』
そして、これを悟るには、やはり絶望を抜けなければならなく、そのための時間が必要なのです。
『絶望はどうしてやってこなければならなかったのだろうか? それは、私たちがすべては自分の思うとおりになり、自分で決められると思い込んでいたからだ。そのため変化というものが受け入れられなくなっていた
(中略)
戦士は敗北を受け入れる。 彼は敗北に無関心を装うこともなければ、それを勝利に変えようとジタバタすることも無い。
敗北の苦痛は彼にとってつらいものだ。 彼は無関心に苦しみ、寂しさで絶望的になる。
それがすべて過ぎ去ったあと、彼は傷口をなめて、すべてを新しくやり始めるのだ。』
2007.11.13 アホやったから
昨日ですが、テレビをつけたら、たまたまある番組で漫才の「麒麟」の田村が昔公園でホームレスとして生活していたことの話をしていました。
その時に「どうやって立ち直ったの?」という質問に「自分はアホやったから」とあっさり答えていました。
でも、これってすごいことですよ。
今の生活がどんなに苦しくとも、難しいことは考えずに「生きる」事だけに専念する。
これはまさに真のキーワードの一つだと思います。
お笑い芸人からも、人生を十分学べます。
ありがたい話です。
2007.11.12 読書家はグルメ?
今、読んでいるのはパウロ・コエーリョの「第五の山」です。
中から、印象に残る言葉を出してみます。
作者の前書きより
「アルケミスト」に出てくる言葉「お前が何かをしたいと望む時、宇宙全体が協力して、それを実現するために助けてくれるのだよ」
私(パウロ・コエーリョ)はこの言葉を心から信じています。
エリヤの言葉
「(私を)尊敬してはいけない。そして、そんなに信じてもいけない。これは私の自分自身との賭けなのだ。私は神が存在する方に、賭けたのだ」
天使がエリヤに言った言葉
「もっとも難しいのは、自分自身の道を決めることだ。選択をしない者は、息をし、通りを歩いていたとしても、主の目から見れば死んでいるのだ。」
「それに、誰も死にはしない。永遠の手はすべての魂に開かれており、みなそれぞれに自らの任務に励んでいる。太陽の下のすべてのことには、理由があるのだ」
エリヤが天使に訴えた時の天使のことば
「悲劇などない。あるのは、不可避な出来事だけだ。すべてはそうあるべき理由をもっている。お前は、一時的なものと、永続的なものを区別するだけでいいのだ」
「一時的なものとはなんですか」とエリヤがたずねた。
「不可避なことだ」
「では、永続的なものとは?」
「不可避なことから学ぶことだ」
読書からもいろいろ学ぶことができます。
これって外食と似ていると思いませんか。
自分が料理すれば、どうしても味の傾向は似てきます。
まったく違った味にすることは難しいです。
でも、外で食べるといろいろな味を経験することができます。
自分の経験だけでは思いつかない味です。
自分の経験からは得ることのできない味を知ることができます。
好き嫌い、善悪、肯定と否定のレベルではありません。
味をどう楽しむかのレベルです。
2007.11.10 影のごとく
小説のようなタイトル(^_^;)
自分が意識して切り離そうとしても影のごとくくっついてくるものがある。
それは「せんにゅうかん」
自分では取っ払ったつもりでも、ちらちらと顔を出す。
それから「くらべること」
世の中に単純な善悪なんてほとんどありません。
チャップリンも映画のセリフで言った様に、戦争で人を殺したら英雄になり、普通の社会で一人殺したら殺人犯でつかまる。
余談ですが、「ルースチェンジ」っていうドキュメンタリーをインターネットで見ました。
9.11のテロ事件についての話ですが、どうも簡単な構図ではないらしいですね。
「せんにゅうかん」を失くして観れば、確かにこの方が話しがあっています。
最近では、私にとっては一番ショッキングな情報でした。
閑話休題
ホントは英語でいうベストなどの「最上級」もベターなどの「比較級」も要らないのだけれど、それでは社会で通用しないからテキトーに使いましょう。
あまり汎用しないように。
どうせくっついてきて、ちらちら顔を出すくらいなら、いい女ならいいのですが。(この、スケベオヤジ!)
2007.11.09 せっかちさん
私を含めてですが、だんだん人間が「せっかち」さんになってきているように思います。
「いつまでに~できる?」
「もっと早く何とかなりませんか?」
「まだ?」
それから情報も求めます。
「そういう経過はいつまで~なるの?」
「これ、何?」
それからマニュアルも求めます。
「これ、どうやったらいい?」
私も反省ですが、他人にたいしての要求が多すぎると思います。
マニュアル見てばっかりでは、脳みそが運動不足になってしまいます。
自分で考える時間を持つように努力しましょう。
瞬間でもいいから。
逆に「考えすぎ」もいけません。
ローギヤ(今では五段変則もあまり見かけませんが)で高速道路を突っ走るようなものです。
燃費が悪くなる。
確かに「楽しよう」という気持ちもあってよいと思います。
むしろ科学の発展はこの「いかに楽に~するか」が土台になっています。
例えば通信方法も古代の煙から、伝書鳩、早馬、飛脚、車の発明、プロペラ飛行機の発明、ジェット機の発明、電話、携帯電話、電子メール・・・・どんどんと楽に情報交換ができるように、進化しています(順序に細かい意味はありません。ただの羅列)。
そういえば、20年前にはまだ、携帯電話が無かったのでポケットベルを持ち歩いていました。
懐かしいような気もします。
確かに現代社会では楽できて早く済ませることができますが、空いた時間にさらにどんどんと新しい仕事が増えているような状況とは思いませんか?
時間が迫ってくるから、いらいらする、怒りまくる。
これからのキーワード、勝手に作りました。
労を惜しむな! 体も自分の脳細胞も使おう 怒るな! 怒りは万病の元 あせるな! 落ち着け 最善の力が出るように
勝手に作ったので、おそらく忘れるでしょうね。
(^_^;)
2007.11.08 慈光
『人の世に道は一つということはない。 道は百も千も万もある』
坂本竜馬 「竜馬がゆく」(司馬遼太郎)より
『どんな人だってその人の人生という舞台では主役である』
遠藤周作
この二つの言葉を見ていると お釈迦様が亡くなる時にいわれたという 「自灯明 法灯明」を思い出します。
人生はその人だけの人生。
だから自分が灯りとならなければ進めません。
だけど、自分だけではないのです。
周りが自分を盛り立ててくれるからこそ、今の自分がある。
そのことへの感謝。
自らを灯りとして生きる 法を灯りとして生きる このペアが大切。
どちらか一つではいけません。
「法」は難しく考えなくても、自分以外の周りすべてへの慈悲(愛)、そのことへの気付きというか、気付く方向に持っていく考え方と思えればよいのではないかと思っています。
私はこの「自灯明 法灯明」か「明珠在掌」を墓石に彫ってほしかったのですが、字数が多いといわれてボツになりました。 (-.-;)
その代わりにといっては申し訳ありませんが、「慈光」と入れてもらいました。
これは檀家になっているお寺の住職に教えてもらいました。
慈しみの光、スピリチュアルにもビビッときました。
今は非常に素晴らしい言葉だと、この言葉で良かったと思っています。(^_^)
いつもの?余談ですが、墓地を歩くと面白いのです。
最近は和式以外に洋式が増えました。
私のところも洋式です。(ここだけ読むと便器みたい)
周りのお墓にもいろいろな言葉が書いてあります。
これを観るのがいいんです。
「ありがとう」 これはシンプルで素晴らしいと思いました。
「和」
「敬天知楽」 これは興味があります。
他にも「家族」「愛」などなど・・・ そういえば、「バカの壁」の養老 孟司さんも著書で「墓地の散歩」が好きと書かれていました。
私もこれがわかる年になっちゃったということですかね。
2007.11.07 千の道
『この道をいけばどうなるものか 危ぶむなかれ
危ぶめば道はなし
踏み出せばその一歩が道となり
その一足が道となる
迷わず行けよ
行けばわかるさ』
一休宗純 (禅僧)
行けば、そこがあなたにとっての「道」となる
「千の風」ならぬ「千の道」
ホントはもっと多いけど、とりあえず流行の表現?(^_^;)
「どんな道?」って聞くだけ野暮なもんです
もっとも答えることもできないもんね
2007.11.06 読書の秋、いや晩秋?
私は本を読むことが多いほうだと思っています。
本から学ぶことも非常にたくさんあります。
そこから何を学ぶかですが、どんな形であれ最終的には自分の人生に活用することが目的になります。
半年くらいは前になるでしょうか。古典文学を勧められて読むようになり、さらに得るものが多くなりました。
「カロマーゾフの兄弟」は本当に良かった。 そして、いろいろと読んでいるうちに最近感じたことがあります。
著者の書こうとする意思をなんとなく感じるようになりました。
外国の本であれば翻訳者の意気込みも含まれています。 著者の質みたいなものも感じます。 心のそこからわきあがってくるようなメッセージを感じるのか、いわゆる「受け狙い」のような本までいろいろです。
これは私の現時点での度量も影響するので人には言えませんが、かなり感じます。
今は、パウロ・コエーリョという作家の本が好きです。 この人はすごいですよ。 まあ、好みもありますから絶対的というわけではありませんが、この人は本物の一人と感じます。スピリチュアルなことがすんなり入る方なら好きになると思います。
それから、ルドルフ・シュタイナーです。 この人の本は難解というか読みにくい部分もありますが、なんとなく「読め」というお告げ?を感じたので読んでいます。 すると、今度は読みやすい、わかりやすいのです。 今がいい時期なのでしょうね。 啐啄同時です。
パウロ・コエーリョという作家は、自身でキリスト密教の修行をされたことがあるそうです。そのため、キリスト教に関連した作品が多いです。
日本の作家でいえば、遠藤周作氏に近いですね。
そういう絡みから、キリストにも興味があり、新約聖書もトライする予定です。
2007.11.05 僕らはみんな すごい時代に 生きている
題名が字あまりになってしまいました。f^_^;
お釈迦様、イエス・キリスト様、モハンマド様、孔子様など昔の方が、今にも通じる真理を解いておられるわけですが、時代の方はどんどんと複雑化している昨今です。
昔のかたがたの生きておられた時代は、まだ今よりはシンプルですが、どんどん人間を迷わせるように欲が渦巻いており、時代が複雑な方向へ加速している気がします。
話は横にそれますが、たとえば将棋や囲碁の世界でも戦略は進化しています。同じ手が通用しなくなりました。どんどんと定石、定跡が変化しています。
野球でも、昭和初期の先発完投型投手が多く存在した時代と違い、今では先発、中継ぎ、押さえと一試合野中でも投手の役割が細分化しています。そうなると戦略も当然違います。
社会全体も同じように進んでいます。
諸行無常の加速化です。
仏教では煩悩は百八つあるといいますが、今ではもっと数が増えているように思います。
さて、話は元に戻して、 何が書きたかったかというと、 お釈迦様がもしも今の時代に生きておられたら、同じように悟られてたでしょうか、という疑問です。
まったく失礼な仮説であることは百も承知しておりますが、私には状況がかなり違ってきているので、現代の複雑系の中で煩悩を減らすことは、たとえお釈迦様でも至難の業のように思います。
無礼なことを言って申し訳ありません。
今の世でも「悟り」を得られていると思います。それが使命なのですから。
現代は、生き方の選択肢が膨大に増えているように感じます。
単純に~をやって暮らしていくという風にはできない時代です。
衣食住すべてが、周りと複雑に絡み合っています。 税金はあるし、保険はあるし、年金も・・・。
煩悩をなくす必要はないといわれる方もおられますが、煩悩をコントロールできるようになるまでは、やはりある程度は減らすことも大切に思います。
どちらにしても、逆にこんな時代だからこそ、生きているだけでもすごいと思えばよいですね。
2007.11.01 自分の中の他者
今読んでいるのは、パウロ・コエーリョの「」ピエドラ川のほとりで私は泣いた」です。
この中に、興味ある寓話が載っていました。
本当は最後の言葉を書きたかったのですが、その寓話を書きます。
ある男が成功して金持ちになりました。 そして旧友たちと話をします。
何故、成功したのかと聞かれて、彼は自分はほんの数日前まで他者を演じていたことに気付いたということを言いました。
「他者って何者ですか」
「他者とは私に、私自身ではなく他のものにならなければならないと教えていた存在のことです。
年取った時に飢死しないですむように、できるだけたくさんのお金をためるにはどうしたらよいかを考えるのが我々の義務だと、他者は信じているのです。 だから、私たちはいつもお金の事や、お金を稼ぐことばかりを考えていて、その結果、地上で過す日がほとんど終わってしまった時になって、やっと自分が生きていることに気付きます。
でも、その時にはもう遅すぎるのです」
「今、あなたは誰なのですか」と旧友が聞きます。
「私は自分の心に耳を傾ける人、つまり人生の神秘に魅入られた者の一人に過ぎません。つまり奇蹟を信じ、奇蹟が引き起こす喜びと情熱を味わっている者です。
失望していることを恐れ、私たちを動けなくしているのは、他者に他なりません」
「でも、人生には苦しみがあるのでは?」と別の旧友が聞きます。
「(略)それを避けることはできません。でも自分が何のために戦っているのか知りもせずに負けるよりは、自分の夢を実現するために戦いのいくつかを失う方がずっと良いのです」
「それだけですか」
「そうです。それだけです。 このことを学んだ時、私はこれまでずっと自分がなりたがった人になることができました。 他者は私の部屋の隅っこに立って私を見ています。でも、私は決して他者を私の中に入らせるつもりはありません。他者は、将来のことを考えないのは危険だぞ、と私に警告して、私をいつも脅してはいますがね。
自分の人生から他者を追放した瞬間から、神聖なるエネルギーが奇蹟を行い始めたのです」
私は大いに感じるものがありましたが、いかがですか?
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