横浜FCクリニック形成外科

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院長の日記

2008.02.28  らしくない万札

今日は、ホントにクダラン話です。f^_^;

いつだったか忘れましたが、たまたま1万円札で「AH888888P」という番号のを見つけました。

6桁の「8」のぞろ目です。
アルファベットの文字まで読めば、 「アハッ!ハ ハ ハ ハ ハ ハ ピース!」(あくまでも雰囲気です)

別にどお~でもいいことだとは思っていますが、それでも見つけたときは「おぉ!」と思ってしまいました。

お札というものを想像した場合、普通はお札の番号はランダムなものを考えると思います。

確率的にはぞろ目になる場合も有るのですが、当然ながら番号が違う場合の方が大半ですので、やっぱり珍しいということになります。

それから数がいい! 和風にいえば末広がりの縁起のいい「8」です。

見つけてからは、使用せずにお財布の中にあるので、ある意味「お守り」状態です。

でも、こんなぞろ目はやっぱりお札「らしくない」ですね。

今は欲こいちゃって、「1」と「7」と「9」を探しています。

そんなに見つかるものではないのにね。(^_^)v

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2008.02.23  縁会

人生には「縁」があることを知って一縁

自分の人生にはいくつもの「一縁」があると知るのはご縁

ご縁で充たされていると知って充縁

充たされた縁は一つと知り飛躍縁

 

夫婦は縁満である

縁側の日向ぼっこは気持ちいい (´∀`)

 

 

「円」と「縁」

バス停で待っていて、連想しました。

でも縁側って、そのまんまですね。(^_^;)

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2008.02.18  労を惜しむ精神

また、教育の内容が変わるそうです。

円周率も3から3.14に戻るらしい。

世界レベルでの学力低下を問題にしているそうです。 なんで、周りを見ないとわからないのでしょうね。

私は、たとえば円周率を3にすること自体を問題に思ったというより、その発想やその結末を危惧していました。

円周率を3に簡略化することで、「ゆとりの思考」ができると思っていたのでしょうけど、そうではありませんでした。

教える方も、学ぶ方も単に「楽していた」だけなのです。

確かに円周率を3.14にするより3にした方が計算は楽でしょうけど、思考はその程度になれるだけです。たかが二桁の数字がある程度で、大げさなことを言っているかもしれませんが、考え方としての方向は決まってくるのです。

計算が大変であるほど、そういう経過があるほど、脳は「新たなる発想」の爆発というか「ひらめき」が生まれるのだと思います。好みによっては「神の啓示」でも構いません。

「楽する」から「気分が緩む」に変わってしまうと、そこからは問題の提示や疑問、ひらめきは生まれないように思います。

円周率3は、そのような「楽しよう」が見え隠れしていたように思います。

私はオジン的発想と言われても構いませんが、「労を惜しむな」は大切だと思っています。

「遠回りと思っていても、自分が思っているよりは案外近道」だったりします。 勿論、ホントに遠回りであることもありますが。f^_^;

遠回りであっても、というか遠回りだからこそ、必ず学べることはありますよ。

忙しいような時の方が、寸暇を惜しんで楽しむ、好きなことに集中することができるのと同じです。 時間があまり余っている場合は、逆にただ時間をもてあましているだけのことが多いように思います。 これも同じような理屈でしょうね。

これは蛇足でした。(^_^;)

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2008.02.15  「レーザー治療」という名の「五目具材」?

「五目焼きそば」などの名称に使われる「五目」の意味ですが、辞書では「五種の品。また、いろいろの物が混じっていること。特に料理で、魚・肉・野菜などを取り合わせてあること」とあります。

ちょっと突飛なマクラですが、意味があるのです。

太字も利用しますよ。 

当院ではレーザー治療も行っているので、当然レーザー治療を希望される方も来られます。

その中には、以前に他院でシミにレーザー治療をされたという方もおられるのですが、まずほとんどと言っていいくらい、使用されたレーザー機器がなんであるかは知っておられません。

まさに、「五目」という名の具材と同じですね。何でも同じという認識です。

実は、「レーザーの機種が何であるか」は、私のようなレーザー治療を行っているクリニックではかなり重要な情報なのです。

レーザーは波長によって吸収されるメラニンの量や皮膚への深達度が違ってきますので、どの波長のレーザー光を使った機種で治療を行ったのかがわかれば、大いに参考になるのです。

たとえば皮膚の深いところまでメラニンがあるシミでは、浅いところにしか入っていかないレーザーだと、どうしても残るわけです。

また、逆に浅いシミに深いところまで治療する必要もないのです。

皆様が治療を受けられたレーザーの機種を知らないということから、私は少なくとも3つの問題を感じました。

まず、当然ながら医師の説明不足です。

そこまでいう必要がないという考えの医師もいるかもしれませんが、もしもレーザー治療が不十分であった場合は、薬にたとえると内服したけど効果がなかったということと同じなのです。

それでも、自分の施設で経過を診るのだから他の医師に知らせる必要はないと思うかもしれませんが、その人がたとえば仕事の都合で転勤になった場合はどうなるのでしょうか。

新天地で治療を希望される時には、ご当地のレーザー治療のできるクリニックに行くことになります。しかし、情報が不足しているから、同じことをしてしまう可能性も否定できないのです。

また、治療を受けられる患者様側も認識が不足しているのだと思います。

「こんなことを聞くと先生の機嫌が悪くなるかも」なんて遠慮する場合もあるかもしれませんが、レーザーの機種を聞かれて機嫌が悪くなるような医師であれば、治療はやめたほうが良いかもしれませんよ。

ついでに思い出しましたが、抗生物質で薬疹が出たという方で、何の抗生物質であったかをご存知でない方も結構おられます。これって重要なことだと思うのですが。

でも、この点は医師側が少しずつでも啓蒙していけばよいことです。

それから、レーザーという名の曖昧な名称への漠然とした権威です。

「レーザー」といえばすごい治療なのだと思ってしまう社会の雰囲気があるのですね。「単なる」と言っては失礼かもしれませんが、あくまでも「レーザーという光を利用した科学的な手段」なのです。魔法ではありません。

もうそろそろ少し覚めた目で見ないといけないと思うのですが。

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2008.02.14  「あなたの住む世界」と「私の住む世界」

「あなたと私は住む世界が違う」

よく恋愛ドラマの別れるシーンで使われそうなセリフです。

今日はこの言葉について感じてみました。 でも、別に恋愛ドラマでなくても、世界がちがうのは当たり前です。 恋人同士でなくても、家族でも、赤の他人でも(そりゃ当然だ)。

「自分が認識している世界」はあくまでも自分が「自分の今までの経験」を基にして感じているだけなのです。

言い換えれば「あなたが認識している世界」と「私が認識している世界」の違いであり、「あなたが観ている世界」と「私が観ている世界」の違いです。

 

話は横道に逸れますが、人生相談などで、「私なら~する」という回答をされる方がおられますが、私は個人的にそのような回答ならあまり意味がないと思っています。

どうみても、相談する人と答える人は人生を含め育った環境、性格などすべてが違うのですから、そんな答えを聞いたって、どう解釈しても参考程度です。

相談される方にとって、大きな決め手にはならないように思います。まあ、自分と違う考え方を知りたいという場合は意味があるのでしょうが、それをそのまま実行するということは少ないのではないでしょうか。新聞等の人生相談も、相談する側も「相談すること」による満足感、答える側も「良い回答ができた」という満足感で充たされているようだけ、と思うのは私だけ?

 

閑話休題

人間が違えば感じ方というか価値観、基準が違うわけで、その解釈を広げていけば当然「世界は違う」ことになります。

 

その「違う世界」同士をつなげているのが、「言葉」や「ボディランゲージ」などに代表されるコミュニケーションなのです。他にもテレパシーがあるでしょうね。当然使用できる人に限りますが。

 

たとえ同じ絵画を見ていても、私の見ている「赤」とあなたの見ている「赤」はひょっとしたら違うかもしれません。 おそらく違うでしょうね。

私は脳の視覚に関係する細胞も個人差があるのだろうと思っています。 だって、規格が同じコンピューターでさえも、微妙に起動のスピードが違ったりしますから。 でも、「赤」の違いを証明することはできません(と、思います)。

でも、できないならできないままで良いです。

万物が解明されるというのは、人間の驕りだと思っています。

 

ユングは「集合的無意識」という深層心理のレベルでの、人間間の共有している「意識」について論じましたが、現在の物質社会ではあくまでも人は違うのです。

その違いが個性です。 そのこともあらためて認識すべきですね。

 

ところで、私は結局何が言いたいのでしょうね。

「誰が見ても同じという、絶対の存在なんてものはない。たとえ正義の味方でも、敵役の家族からは嫌われている(と、思う)」 

「人生に模範解答はない。あるのは、それぞれのただ一つの人生」

「自分の感覚を100%伝えることはできない」

「お互いが違う世界を見ているのだからこそ、なにか共通の情報を交換できるプロセスを持つべきなのだ。それが言葉であり、身振り手振りであり、表情である。」

「自分と違う世界があることも認めよう」 

「深海も海だ。海上の波も海だ。見方の違いだけでどちらも存在しているのだから、否定することはできない」ことでしょうか。

ほかにも出てきそうですが、限がないので。f^_^;

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2008.02.12  せきばらいのせきにん

今日は、勝手な独り言です。

先日、電車で咳払いをしただけで、隣の男性に睨みつけられました。

それも殴りかかるような勢いです。 普通の咳払いで、その人に向かっていたわけでもなく、いわゆる咳でもなかったのですが。

その男性は、降りたあとも近くの男性を睨みつけながら歩いていました。

まあ、この人はそのような性分なのだろうと思いましたが、私も社会の中においてはこの程度の咳払いでも注意しないといけないのかと認識すると共に、自分には甘く他人には厳しく責任を追及するこの社会を改めて実感しました。

なんか、すさんだというか、心にゆとりがないような社会になりましたね。

その男性のことを気の毒に思いました。

 

そういえば幼稚園の先生に聞いたことがありますが、行儀について子供に話をしたら、その親に逆に怒られたそうです。

「勝手なことを言うな」って。

昔は、周りの大人が子供に注意するのは普通に見られた光景でしたよ。

今では、注意するというより最初から怒鳴ったり怒られるのでしょうね。

 

たとえ注意はしなくても、ちょっと行儀の悪い子を見たら、まるで野生の動物でも見るような目つきになっている人もいます。

今の社会は自分のことだけを見ていれば問題ないようです。

自分には責任がこない様にしていればいい。

注意もしないほうが良いそうです。 そうしていれば、とりあえずは生きていけるでしょう。

将来について興味がありますね。どうなるのでしょう。

 

また、思い出しました。

「子供叱るな 来た道じゃ   年寄り笑うな  行く道じゃ」

「清濁併せ呑む」ことがホントに必要です。

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2008.02.06  「今」を「楽しむ」

ちょっと、「プレッシャー」について考えてみました。

一番プレッシャーを感じる時は、どんな時でしょうか。

ある状況で何か対応しなければならない時に、その対応が自分の技量と判断力で十分まかなえる時は問題ないのですが、「自信がない時」や「微妙な時」は重圧を感じてくると思います。 (ホントにこの「微妙」という言葉は便利ですね) 他にも「面倒くさい」時などもあるでしょう。

プレッシャーは辞書では「精神的重圧」と書いてあります。

では重圧は?というと「強い力で押さえつけること。

また、その力」 何故、「強い力」が生まれるのでしょうか。 力は辞書ではたくさん意味が出ていますが、今回関係するものでは「ほかに働きかけて影響を与えるもの」があります。

ではその力の源は何でしょうか。

今回のテーマは、書き出せば膨大な量になってしまうので、あえてごく一部のことを書きます。

この源は複数有ると思っていますが、その一つに「比べる」があるのではないかと考えています。

「今までの自分」と「この結果を迎えている自分」を比べている。

そこに、自分の中で意味のある「得」や「損」を先に考えてしまう。

「得」を考えると、力が入りすぎる。
「損」を考えると、あえて頑張るという「やる気」がなくなってしまう。

その結果として、日ごろの自分ではなくなり、「別人」のような結果をもたらしてしまいます。

どこまで重圧に変換するかは、個人の感じている「増幅器」によって異なってきます。

 

さらに、「その結果」という「責任」を背負いたくないという気持ちにまで発展するかもしれません。 「気」がその場から逃げちゃいます。

その気持ちはよくわかります。

 

この「そこから、どう対応するの?」が人によって違うわけですね。

このプレッシャーへの対応もいろいろあるでしょう。

よくあるのが、高校野球でみられるものです。

別の「比べる」を利用します。

「自分はこれだけの練習をしてきたのだから」という「過去の自分」の一例を出してきて、重圧に対抗します。

一般的な対応では、この「過去の自分」を引き出す方法が多いのではないでしょうか。

 

ここからは私の考えですが、この過去を引き合いに出すことにも限界があると思うのです。

相手のいるスポーツの場合、「向こうもよく練習しているのだろうなあ」とか「自分よりも強そうだ」なんて考え出したら、「過去の自分」も絶対的なものではなくなってしまうからです。

「過去の自分」を利用しても、効果があるのは少しです。

「これからの自分」は結局「これからの自分」です。

となると、どうしたらよいか。

 

仮説としてのキーワードは「今」だと思っています。

「線」にせずに「点」にしてしまう。

点にしてしまえば、その瞬間は「やる気」の成分だけになれます。

火事場の中にいるときには、「力み」も頭の中にはないと思うのです。

 

それから「楽しむ」でしょうか。

 

それを知るものは、それを好むものに如かず

それを好むものは、それを楽しむものに如かず

 

言い換えれば、「過去」を好むものは、「今を楽しむ」ものに如かず でしょうか。

何とか、その瞬間を「楽しめる」ようになりたいものです。

 

気がつけば長くなっていました。 時間をとらせてすいません。

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