横浜FCクリニック形成外科

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院長の日記

2008.08.30  雷の夜に

昨日の夜は、雷が光り、鳴り響いて非常ににぎやかでした。

昔、似たようなシーンを見たような。

スピルバーグの「未知との遭遇」でした。

UFOも飛んでいるのかな。

そんな時にふと思ったのですが、地球上に発生している台風や地震、雷は全て気候や地殻変動から見れば必然なのでしょうけど、人間にとってはまったく予測できないことですよね。

その場所に何が存在しようとも、雷は落ちるし土砂崩れが起きます。

人が巻き込まれれば人的災害と呼ばれますが、誰もいない山でも知らないうちに土砂崩れは起きています。

その場所の木々や虫たちにとってはその生命が失われることがあるのです。

「生きること」、さらにいえば「在ること」とはすなわち「予測できないこと」なのですね。

「諸行無常」はいたるところに満ちていました。

「もっと気付けよ」と言っているようです。

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2008.08.18  人生 油絵のごとく

またまた私の勝手な仮説です。(^_^;)

サマセット・モームは人生を「絨毯を編む」という表現で表しました。

これについては、私も以前に書きました(その日記)。 

私もこれには納得していますが、人生の積み重ねを考えると私は絨毯と言うよりも油絵の方がわかりやすいのではないかと思います。

油絵は乾いたら、その上に何度も重ね塗りをしていくことができます。

たとえば昔のルオーという人の作品を見ると、実物はかなり重ねて描いていますので、立体的な感じすらあります。 この盛り上っている迫力がこの人の持ち味になっています。

 

人生は「境遇」の上に「生来の性格」をベースにして「経験」を重ねていきます。

まさにコンピューターでいうメモリーの上書きです。

そして油絵と同じように現時点での「自分」というキャンバスに「経験」という色を付けていくのです。

日々描いていくのですから、明るい傾向の色合いになることもあれば暗い色合いになってしまうこともあるでしょう。

でもどんどん全体的にも部分的にも描き足していくのです。

そう考えれば、現時点での「絵」がどんどん変化してもおかしくはないということがわかります。

1年前と全然違う画風になってしまっていてもまったく構わないわけです。

 

また、絵の具が重ねられて表面からは見えなくなった「過去の絵」は、いわゆる「忘れられた記憶」ということになります。

でも忘れているだけで過去としての積み重ねの一部にはなっているのです。

盛り上がりの一部になっているわけです。

 

そこで、「人生の意味」というものを考えますと、この絵の「重ねられた色の厚み」の意味になるのではないでしょうか。

ですので人生の意味は、この絵の具の厚みに価値を見出す人には意味のあることになりますし、厚みを意識しない人にはそれほどの意味がないものになります。

でもそれぞれの人がそれぞれの「芸風」で描いているのですから、それぞれの受け止め方で良いのです。

ですから、人生の意味についての議論というものは、あまり意味がないのかもしれません。

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2008.08.13  夏ですから

今日は通勤電車で座れました。静かでいいです。f^_^;

夏は衣食住のうち衣と食の仕事量が増えます。

毎日、大量の麦茶を作り、大量の洗濯をします。
今は全自動だから楽ですが、これを一枚一枚洗濯板で洗っていた頃はホント大変だったでしょうね。

家事を行っていると、あっという間に時間が過ぎます。

 

「仕事」という言葉は日常でもよく使いますが、 辞書で調べてみると、 動詞「する」の連用形「し」に「こと(事)」の付いた語で、「仕」は当て字だそうです。

意味は(1)するべきこと。しなければならないこと。

(2)生計を立てるために従事する勤め。職業。などです。

この他にも力学的に使用しますがここでは省略します。

 

確かに「しなければならない」のですが、そう思っているとちょっと気が重くなるかもしれませんね。(^_^;)

だもんで、私は「することができる」と思っています。

生きていることが実感できます。

他には何も感じる必要はないと思うくらいです。

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2008.08.04  いち、にい、サン! 死

お盆が近づいてきました。

 そう思うと「死」について考えてしまいました。

私は浄土真宗の檀家に入っておりますが、 浄土経典の一つである「大無量寿経」に 「人、世間の愛欲の中にありて、独り生まれ、独り死に、独り去り、独り来る」とあります。

みんな死ぬときには独りなんですね。 確かにそうだと思います。

たとえ臨終の場で、周りに家族がおられたとしても、今回の「自分の人生」を終わろうとしているのは、本人である「自分」だけなんです。 

しかし、最後が「独り来る」で終わるところが、さすが仏教ですね。

 

また、これは一休さんのエピソードだそうですが、正月にある人から何か書いてくれと頼まれた時に、 一休さんは「父死 子死 孫死」と書いたそうです。

「正月からなんと縁起の悪い」と文句を言われたそうですが、一休さんは「人はみんな死ぬんだ。だから父から順に死んでいくことが自然だし、一番悲しみが少ないんだ。先に孫が死んだら一番悲しみが大きいだろう」と言ったそうです。

 

そういえば、あの有名な「門松や 冥途のたびの一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」と歌ったのも一休さんでした。

 

読んでいて気がめいりますか。

最近は「死」というものをあんまり言うのはタブーのような風潮がありますし、みんな「自分はすぐには死なない」とか「自分は病気にはならない」なんて心のどこかに思っていたりすることも影響していると思います。

かくいう私もそう感じる時があります。

 

 でもね こういう歌もあるのですよ。

 

明日ありと 思う心の あだ桜

夜半(よわ)に嵐の吹かぬものかは

 

現代人は、スケジュールに浸りきってしまっていますから、明日が当然存在すると思い込んでいます。

 

でも、いつも100%そうなるとは限らないんじゃないか?っていうこともふと考えてもいいんじゃないかと思うのです。

私も、実家が阪神大震災にあいましたし、私が生まれた実家は震災の時の全壊でもうありません。

 

「いつ、何が起こるかわからない」という気持ちは、もてるようになりました。

ホント 諸行無常なんです(無情ではありません!)

 

それから、逆に「死」を安易にというか簡単に考えている輩が、今の無差別殺人を考えるのかもしれません。
ちょっとこれは蛇足ですが。

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