横浜FCクリニック形成外科

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院長の日記

2008.10.28  瞑想の意味

前回にもちょっとだけ触れましたが、瞑想の意義についてもう少し私の考えを追加します。

 

今日二つ目ですが、内容的に前回のとあわせてセットにした方が良いと思いまして。f^_^;

 

まず大前提としてですが、基本的に「思考」は必要なのです。

しかし、使用法を誤る人が結構いるのです。

 

たとえばクヨクヨといつまでも悩んでいるというのは、同じ思考回路だけを消耗してしまいます。

するとその思考によって労働を強いられた神経細胞がオーバーヒートして疲弊して死滅してしまいます。

そのため、脳を調べるとCTで脳の一部が萎縮してしまう所見が認められたりするそうです。

 

昔の人はうまいことを言いました。

「下手な考え 休むに似たり」

 

そのために、「不要な思考はやめましょうよ」という方針の一法として瞑想や座禅があるのではないでしょうか。

これらによって、同じ神経回路を過度に使用しないようにすることと、別のルートも開発することができるからです。

 

身体を鍛える場合にも、どっか一部だけを酷使するような運動は、長年行なうと故障が多いですね。

全身をバランスよく鍛える方が故障しにくいと言えるでしょう。

姿勢でも、腰など一部に負担がかかるような姿勢では、痛めてしまいますが、背骨全体にできるだけ均等に負担をかけるような姿勢にすれば腰を痛めにくいのとも似ていますね。

 

おそらくですが、私は同じ脳の神経回路ばかり使っていることも、将来の認知症につながると思っています。

なぜなら、同じ神経回路ばかり使うと疲弊して萎縮するのですから、年をとってそれらの神経回路が使えなくなった時に、他の神経回路が発達していないと、「思考停止」になってしまうのは想像に難くないですよね。

 

ですから、自分の考えだけに固執するのではなく、いろんな考えに耳を傾け、自分とは反対の考え方も認める精神が、ボケ予防の一つになるとは言えないでしょうか。

 

まさに「清濁併せ呑む 大人(たいじん)」です。

 

具体的なヒントですが、「ワンパターンの日常生活からは脱却しましょう」です。

ワンパターンは同じ思考回路しか使いません。

ですから、脳が楽をしてしまうのです。

脳が楽をすることで、運動不足ならぬ「思考不足」を招き、この結果が認知症ではないかと考えているのです。

 

そうならないためには、やはりその都度脳に刺激を与えることですね。

それは「思考せざるを得ない」状況に、脳を追い込むのです。

そうすれば嫌でも頭を使うことになります。

今「嫌」という言葉を使いましたが、理想的には「楽しみながら 」が良いと思います。

その都度、極端にいえば初めてのように、ワクワク・ドキドキしながら、生活することが良いといわれるのはそういう意味なんだと思います。

 

それから好奇心旺盛であることですね。

多趣味も良いかも。

自分にできる範囲で良いのです。

 

これらは、そんなに極端な考えとは思っていない今の私です。(^_^;)

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2008.10.28  OH!脳

他の方のブログを見ていても、いつも感心することがあります。

それぞれが、いろいろな見方をしている。

ただ、共感することがあるのは、同じ人間社会で生きていくルールを踏まえているからでしょうね。

それにしても、脳ってなんでしょう。

 

デカルトにして、「我思う  ゆえに我あり」と言わしめた張本人?です。

脳の機能の一つに「思考」があります。

精神世界、宗教の世界でも、「思考偏重」を問題視することがありますし、瞑想や禅はいわゆる雑念などを主とした「思考」を一時的にしろ脳からなくそうとする行為です。

 

これは私見ですが、これら瞑想や禅の目的はコンピューターにたとえると脳の「再起動」であり、「デフラグ」だと思っています。

同じような目的で行なっているのが、毎日定期的に行なっている「睡眠」です。

そして、その作業中にみるのが「夢」であり、しゃべるのが「寝言」。

歩くのが「夢遊病」?

これはよく外国アニメで見かけます。f^_^;

 

これは余談ですが、そのシーンはたいてい両手を肩の高さにまっすぐ前に伸ばして、足も膝で曲げずに伸ばしたまま歩きますね。 あれも一種の固定イメージですね。

 

閑話休題。

要するに睡眠時間が短かったり、取らないでいると、「誤作動」したり「フリーズ」しちゃうのです。

これらがいわゆる精神病やノイローゼにつながるのです。

 

所で、私は思考は別に悪いものとは思っていません。

 

思考は、包丁と同じです。

うまく料理に使うこともできるし、殺傷に使うこともできるからです。

 

思考は、車の運転と同じです。

たとえ正しい道を走っていても、安全運転で走ることもできれば、スピードオーバーや余所見運転、飲酒運転は事故につながる可能性がおおきいのと同じです。

 

思考は、体力トレーニングと同じです。

自分の体力に合わせて、トレーニングをしないとかえって体を壊すのと同じです。

 

案外、私たちは日ごろ「脳」のことを考えていませんよね。

自分の顔を、リアルタイムに自分では見ることができないのと同じですね。

 

まあ、日ごろから付き合っているといえば、神経内科医、脳神経外科医、精神科の先生でしょうか。

でもね、ふと考えてみると、深いですよ。

だから、健康に注意して「思考」しましょう。(^_^)v

 

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2008.10.25  人生はペナントレース?

私は前にも「人生の意味・価値」について書きました。

人生に意味はないと書きましたが、厳密に言えば人生について「今考える」意味はないということになります。

そんな暇があったら、まずは目の前のことをやれよ!と言いたいくらいです。

 

そのことについて、最近具体的な例が見つかりました。

それはペナントレース1位を逃し、さらにCS第二ステージにも出られなかった阪神です。 (-.-;)

前半はぶっちぎりでトップを走っていたのに、最後はあの結果に終わりました。

たしか7月だったかその頃にはオーナーとの話で来期も監督をするという話も出ていたように記憶しています。

それがどうしたのか、後半だけだとガタガタでした。

「勢い」に欠けていました。

前半の時期に、誰がこの結果を予想したでしょうか。

まさに、「勝負は下駄を履くまでわからない」です。

 

今の私が人生についての意味、価値を言えないのは、野球の試合またはペナントレースと同じだからです。

まだ私は9回まで来ていないのですから(多分、f^_^; )

言うことができない「今」の段階では「ない」と同じです。

少なくとも考える必要はない。

 

そういえば、野球選手も試合後のインタビューで言っていますね。

「とにかく、今は一試合一試合を大事にしていくだけです」ってね。

 

最終的にその試合を評価できるのはゲームセットになってからですし、ペナントレースから見れば最終試合が終わってから、その結果についての総評をすることになります。

途中では、最終的な評価はできません。

 

会社の経営で、帳簿の監査ができるのは、年度末に閉めてからです。

その理屈でいくと、今の人生の意味、価値、評価が言えるのは、正確には死んでから、あの世(もしあれば)で評価することになるのですが、わからないのでとりあえず死ぬ間際でしょうね。

 

お釈迦様は「人生は苦だ(※)」と言われたそうですが、私は「総じて良かった」とか「総じて楽しかった」と言いたいです。

まあ、逆に言えばそう言いたいために今を生きているのかも。(^_^;)

(※正確にはお釈迦様の言われた「苦」は思い通りにはならないという意味だそうです)

 

ちなみに、人生というゲームでは、5回を過ぎたら雨天コールドゲームが成立するという野球とは違い、試合が始まれば1回でも雨天コールドゲームが成立するという点があるとも思っています。

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2008.10.22  なぜか今感じること

ダンマパダ(真理のことば)は、日本では「法句経」として読まれていますが、その原文であるダンマパダは仏陀の言葉を弟子たちがまとめたものとして、東南アジアでよく読まれているそうです。

岩波文庫から出ている「真理のことば 観興のことば」にもいろいろなことが書いてあります 。

短いものばかりですが、423もあります。

今の世の中ですが、世間を見ていると、このダンマパダの中に何か感じる文がいくつかあります。

 

旅に出て、もしも自分より優れた者か、または自分にひとしい者に出会わなかったら、むしろきっぱりと独りで行け。

愚かな者を道連れにしてはならぬ。

 

 怨みを抱いている人々のあいだにあって怨むことなく、われらは多いに楽しく生きよう。

怨みをもっている人々のあいだにあって怨むことなく、われらは暮らしていこう。

 

悩める人々のあいだにあって、悩み無く、大いに楽しく生きよう。

悩める人々のあいだにあって、悩み無く暮らそう。

 

むさぼっている人々のあいだにあって、わずらいなく大いに楽しく生きよう。

むさぼっている人々のあいだにあって、むさぼらないで暮らそう。

 

自己こそ自分の主である。

他人がどうして自分の主となろうか。

自己を良くととのえたならば、得がたき主を得る。

 

世の中は泡沫(うたたか)の如しと見よ。

世の中はかげろうの如しと見よ。

世の中をこのように観ずる人は、死王も彼を見ることがない。

 

勝利からは怨みが起きる。

敗れた人は苦しんで臥す。

勝敗をすてて、安らぎに帰した人は安らかに臥す。

 

 

額面通りに理解しないといけないということはないと思います。

大事なことは、自分が、今、何を感じるかです。

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2008.10.18  やっぱりというか、さすがポッター

ハリーポッターの第7巻をようやく読みました。

発刊の時にすぐに買っていたので、子供たちはもう読んでいました。

私は他にしたいことがあったので、読んでいなかったのですが、この時期になぜか読みたくなったのです。

やっぱり良かったですね。

小泉さんじゃなくても「感動した!」です。

 

第一巻から読んでいるので、登場人物にも思い入れがありますし。

「う~ん」とうなること(ただし、理由はいいませんよ!)もしばしば。

 

最近は、本でこんなにハラハラすることはありませんでしたが、今回は上巻を読んだ時に、こんな状況からどう収拾をつけるのだろうと思いました。

 言いたいことも結構あるけど、我慢して口チャック!

 

こんなに思い入れて読めるのは、他には「ゲド戦記」くらいです。

なかなか含蓄のある言葉もありました。 また、ストーリーに触れない程度にご紹介したいと思います。

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2008.10.11  賢人のおられるところ

今回ノーベル賞を4人の方が一度に受賞することになりました。

日ごろ、地道な研究をされているので、突然脚光を浴びてインタビューを求められても、皆様共通の反応として戸惑いがあるように感じます。

そして、ほとんどの方が、早くもとの研究に戻りたいと言われます。

ずっとスポットライトを浴びることに慣れていないこともあるでしょうし、居心地が悪いのでしょうね。

勿論、その分野では十分に認められているのですが、どうしても「マニアック」な世界ですから、広く一般に知られるというレベルではないという場合がほとんどではないでしょうか。

目に付く場所にいるから良いとは限らないとつくづく思います。

どの分野にしても、あまり目立たないところに達人・名人・賢人がいるということも実感します。

私は、変な表現ですが、「主婦」の賢人、「母」の名人、「子供」としての達人?もいると思いますよ。

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2008.10.06  罪悪感

もしも脳内のことがすべてだったら、「私」という魂の学びはこの人生限りということになります。

私は、今はそう思っています。

言い方を変えれば、前世も未来も私には見えないので、絶対の否定もしませんが、肯定もできないということです。

だから、今を見つめることしかできないのです。

いつ死ぬかわかりませんが、だからこそ「今」を大切にしたい。

 

「この人生はこの場限り」という考えだと、悟っていない人は、そのまま人生を終えたら、ただそのままということです。

学ばないまま終わる人も多数いることでしょう。

 

それじゃあ いけない?

都合が悪い?

納得いかない?

 

「あの人は好きなことして死んだ。私は無理して我慢していたのでできなかったことがたくさんある。」という考えを持ち、自分が損した気持ちになる?

 

そのような不公平感は問題だという発想から、もっと公平かつ安心したいという気持ちから、昔の人は宗教をつくったり、過去から未来へつながる魂を考えたとは言えないでしょうか?

「いいことをせずに、悪いことばかりしていると地獄に落ちる」という発想も同じ方向です。

人を苦しめてもなんとも思わない人、自分のことばかりを考えている人たちが、楽しいという世界は許せないのですね。

だから「天罰」「自業自得」等の言葉を作ったのでしょう。

 

でも、その考えだと無理が生じることも最近多いのです。

それはもともとの考え方自体に問題があると判断せざるを得ないような人たちが関係する犯罪や問題が増えているからです。

いわゆる通常の人間のもつ概念・考えとちがった認識を持ってしまう人がいると思います。

 

このような人たちは、社会通念、一般的な認識を持つという自覚がありません。

こういう場合、この人たちにとって「天罰」は存在するのでしょうか。

「罰」はその人が多少なりとも自覚して、罪悪感が心のどこかにないと通用しないと思うのです。

 

本当の意味での「罰」とは、自分の罪を自覚させる事だと思うのですが、どうもその意味を知る以前の人がいるようだと思っています。

たとえて言うと、日本人がほとんど日本語を知らないアメリカ人に向かって日本語で説明するのと同じようなものです。

当然、自覚できれば良いのですが。

 

「願えば叶う」という思想を説いたマーフィーも、「たとえ悪事を働いても、心の底からの罪悪感がなければ、その人に悪いことは起きないだろう」といっています。

私自身、まだわかっておりませんから、なんとも言えませんが、「魂を磨く」といっても、それでは通用しないような人たちがいるような気がしてなりません。

 

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