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院長の日記

2008.09.02  人牛倶忘

 自分に嫌なことが降りかかってきたときのことですが、これはどういう原因があるからと考えますか。

 

1 自分は、それだけの大変なことも乗り越えられるだけの「魂」であるから、起こるべくしてそれが起こった。

2 自分は、それだけの大変なことが起こるような身の振り方をしてきたから、その結果として起こるべくしてそれが起こった。

3 神さま仏さま、または大いなる存在は、その人その人を見て運命をきめているのではない。ランダムに災難が振り掛かってくる。だから運命は「善」とか「悪」と直接の関係はない。

4その他  自由に考えてください。 とりあえず「人牛倶忘(※)」にしておきましょう。

 

1はまさにプラスの方向を持った思考です。

何が起ころうとも「予定通り」なのです。 最近はこの手の積極的思想を書いた本が多いように思います。

次から次へとアクション・シーンが続き、それを乗り越えていくインディ・ジョーンズのようですね。

 

2は「因果応報」ともいえます。 これはどちらかというと過去のことのマイナス面を重視した考え方といえます。 非常に宗教色の濃い思想です。 だから、悔い改めろとか、今の行いを正せとか、ご先祖様を大切にしろという方向に発展していきます。

 

3は上記の関係を否定しますので、あっさりしています。 これはいわゆる禅宗の考える方向に近いのではと思います。

 

どれがいいというのではありませんが、どれが自分にとってしっくりとするでしょうか。

私自身は、この1年くらいの間でかなり考え方が変わりました。

まあ、そんなもんです。 だって諸行無常ですから。

 

※ 人牛倶忘は、「十牛図」という悟りを開くまでの十の段階を示した図集の8番目にあります。他の9枚の絵は人や牛、風景などいろいろ描いてありますが、「人牛倶忘」は 白地のバックに黒い丸が大きく描かれているだけです。シンプルな絵柄なので、ここに記載しました。興味のある方は検索するなど調べてみてください。

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2008.09.01  マイ・テーマ・パーク

早いもので、もう9月ですね。

私の家の庭(と呼べるなら)ですが、雑草のワンダーランドというかテーマパーク状態です。

特に今は草たちが元気?です。

10年以上前には芝生だったのですが、自然?淘汰されてしまいました。

ダーウィンの進化理論を地で経験?しています。

ところで、先ほどは「雑草」という言葉を使いましたが、「雑草」とか「害虫」って言葉は、人間勝手な言葉ですね。

というわけで、私の家の庭は「自然」というテーマ?に沿っています。

(^_^;) それなりに四季を味わうことができます。

もっとも、別名「ほったらかしの庭」とか「庭の手入れをしていない家」とも言うそうです。

(・_・)エッ….?

でも時々は刈っていますよ。

年に何回かは聞かないでください。 

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2008.08.30  雷の夜に

昨日の夜は、雷が光り、鳴り響いて非常ににぎやかでした。

昔、似たようなシーンを見たような。

スピルバーグの「未知との遭遇」でした。

UFOも飛んでいるのかな。

そんな時にふと思ったのですが、地球上に発生している台風や地震、雷は全て気候や地殻変動から見れば必然なのでしょうけど、人間にとってはまったく予測できないことですよね。

その場所に何が存在しようとも、雷は落ちるし土砂崩れが起きます。

人が巻き込まれれば人的災害と呼ばれますが、誰もいない山でも知らないうちに土砂崩れは起きています。

その場所の木々や虫たちにとってはその生命が失われることがあるのです。

「生きること」、さらにいえば「在ること」とはすなわち「予測できないこと」なのですね。

「諸行無常」はいたるところに満ちていました。

「もっと気付けよ」と言っているようです。

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2008.08.18  人生 油絵のごとく

またまた私の勝手な仮説です。(^_^;)

サマセット・モームは人生を「絨毯を編む」という表現で表しました。

これについては、私も以前に書きました(その日記)。 

私もこれには納得していますが、人生の積み重ねを考えると私は絨毯と言うよりも油絵の方がわかりやすいのではないかと思います。

油絵は乾いたら、その上に何度も重ね塗りをしていくことができます。

たとえば昔のルオーという人の作品を見ると、実物はかなり重ねて描いていますので、立体的な感じすらあります。 この盛り上っている迫力がこの人の持ち味になっています。

 

人生は「境遇」の上に「生来の性格」をベースにして「経験」を重ねていきます。

まさにコンピューターでいうメモリーの上書きです。

そして油絵と同じように現時点での「自分」というキャンバスに「経験」という色を付けていくのです。

日々描いていくのですから、明るい傾向の色合いになることもあれば暗い色合いになってしまうこともあるでしょう。

でもどんどん全体的にも部分的にも描き足していくのです。

そう考えれば、現時点での「絵」がどんどん変化してもおかしくはないということがわかります。

1年前と全然違う画風になってしまっていてもまったく構わないわけです。

 

また、絵の具が重ねられて表面からは見えなくなった「過去の絵」は、いわゆる「忘れられた記憶」ということになります。

でも忘れているだけで過去としての積み重ねの一部にはなっているのです。

盛り上がりの一部になっているわけです。

 

そこで、「人生の意味」というものを考えますと、この絵の「重ねられた色の厚み」の意味になるのではないでしょうか。

ですので人生の意味は、この絵の具の厚みに価値を見出す人には意味のあることになりますし、厚みを意識しない人にはそれほどの意味がないものになります。

でもそれぞれの人がそれぞれの「芸風」で描いているのですから、それぞれの受け止め方で良いのです。

ですから、人生の意味についての議論というものは、あまり意味がないのかもしれません。

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2008.08.13  夏ですから

今日は通勤電車で座れました。静かでいいです。f^_^;

夏は衣食住のうち衣と食の仕事量が増えます。

毎日、大量の麦茶を作り、大量の洗濯をします。
今は全自動だから楽ですが、これを一枚一枚洗濯板で洗っていた頃はホント大変だったでしょうね。

家事を行っていると、あっという間に時間が過ぎます。

 

「仕事」という言葉は日常でもよく使いますが、 辞書で調べてみると、 動詞「する」の連用形「し」に「こと(事)」の付いた語で、「仕」は当て字だそうです。

意味は(1)するべきこと。しなければならないこと。

(2)生計を立てるために従事する勤め。職業。などです。

この他にも力学的に使用しますがここでは省略します。

 

確かに「しなければならない」のですが、そう思っているとちょっと気が重くなるかもしれませんね。(^_^;)

だもんで、私は「することができる」と思っています。

生きていることが実感できます。

他には何も感じる必要はないと思うくらいです。

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2008.08.04  いち、にい、サン! 死

お盆が近づいてきました。

 そう思うと「死」について考えてしまいました。

私は浄土真宗の檀家に入っておりますが、 浄土経典の一つである「大無量寿経」に 「人、世間の愛欲の中にありて、独り生まれ、独り死に、独り去り、独り来る」とあります。

みんな死ぬときには独りなんですね。 確かにそうだと思います。

たとえ臨終の場で、周りに家族がおられたとしても、今回の「自分の人生」を終わろうとしているのは、本人である「自分」だけなんです。 

しかし、最後が「独り来る」で終わるところが、さすが仏教ですね。

 

また、これは一休さんのエピソードだそうですが、正月にある人から何か書いてくれと頼まれた時に、 一休さんは「父死 子死 孫死」と書いたそうです。

「正月からなんと縁起の悪い」と文句を言われたそうですが、一休さんは「人はみんな死ぬんだ。だから父から順に死んでいくことが自然だし、一番悲しみが少ないんだ。先に孫が死んだら一番悲しみが大きいだろう」と言ったそうです。

 

そういえば、あの有名な「門松や 冥途のたびの一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」と歌ったのも一休さんでした。

 

読んでいて気がめいりますか。

最近は「死」というものをあんまり言うのはタブーのような風潮がありますし、みんな「自分はすぐには死なない」とか「自分は病気にはならない」なんて心のどこかに思っていたりすることも影響していると思います。

かくいう私もそう感じる時があります。

 

 でもね こういう歌もあるのですよ。

 

明日ありと 思う心の あだ桜

夜半(よわ)に嵐の吹かぬものかは

 

現代人は、スケジュールに浸りきってしまっていますから、明日が当然存在すると思い込んでいます。

 

でも、いつも100%そうなるとは限らないんじゃないか?っていうこともふと考えてもいいんじゃないかと思うのです。

私も、実家が阪神大震災にあいましたし、私が生まれた実家は震災の時の全壊でもうありません。

 

「いつ、何が起こるかわからない」という気持ちは、もてるようになりました。

ホント 諸行無常なんです(無情ではありません!)

 

それから、逆に「死」を安易にというか簡単に考えている輩が、今の無差別殺人を考えるのかもしれません。
ちょっとこれは蛇足ですが。

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2008.07.25  お釈迦様とウルトラマン

なんちゅうタイトルでしょう。

罰当たりなのか、アホなのか、その両方か。

 

お釈迦様は対機説法といって、相手に合わせて説法することができたといいます。

私は凡人なので、そんな事はできません。

理想は、打たせてとるピッチングみたいなものですが、まだまだです。

 

となると、どうするか。

その時、その瞬間の私をぶつけるしかない。

ぶつけるといっても体当たりではありませんよ。(^_^;)

 

今の私をまるまま、100%使いたいということです。

でもそれが最善になるかどうかは別ですが。 それでもいいんです。

だって、それしかないからです。

 

いかなる展開でも、そうありたいと思っています。

 

「その場限り」って言葉は、辞書には(其の場限り)ただその場、その時だけであること、と書いてあります。

一般的にはいい印象の言葉ではないようですが、その場を燃焼させるという意味で重要な意味にとらえています。 

 

そういえば、「その時に全てをぶつける」というお手本がいました。

胸のランプが赤になってからのウルトラマンです。

それにしても、何故最初からスペシウム光線を出さない?

水戸黄門の印籠と同じく、それが演出だから。

ジュワッチ!(^_^;)

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2008.07.23  顔

他人の顔を見ていて気になることが時々あります。

特に朝の出勤時の電車の中 眉間に立てジワ、口がへの字の人があまりにも多いのです。

本当につらい人もいるでしょうけど、自分で自ら人生を難しく考えている人もいるのでは?

もっと穏やかな顔はできないのかなと思ってしまいます。

独り相撲はしていませんか。

自分の周りに棘や壁を作っていますよ。

そうやらないと生きていけない社会なのでしょうか。

 

先日、ぶつかりそうになっただけで相手の女性に「このババア!」と怒鳴っている若者がいました。

ここまでくると、もう気の毒に思ってしまいます。

 

所で話は変わりますが、自分の顔は自分の所有しているものですが、自分で直接観ることができないものでもあるのです。

そういうこと考えたことありませんか。

だって鏡で見たって、左右反対だから実際の顔ではありません。

「顔」にはそういう特徴があるんですね。

みんなそうですよ。

例外はない(幽体離脱できると思う人は除く)。

自分が所有しているものなのに、生で見ているのは周りの人だけ。

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2008.07.16  今までは・・・・

「今まではよかったのに、なんで? なんでオレ(私)のときになってこうなるの? めちゃめちゃ損じゃん!」

 

これは日常でもしばしば感じることがあるでしょうね。

よく考えたら、今はこのフレーズで満ちています。

 

1 今のお役人に対する「天下り」に対して批判がきており、これからはむずかしいかも

2 今の社会保険事務所の人たちは、今までのシステムのツケで超忙しくなる一方、いろいろな福利厚生が取りざたされている

3 医療でも保険診療点数が引き下げられ、かなりの減収になる一方で責任がどんどん重くなっている

4 お役人も今まではタクシーによる大名帰宅ができたのにこれからは駄目になる

5 地球温暖化問題で、これから発展していこうと考えている国も都市化、工業化を自粛せざるを得ない

 

他にも結構思いつきますが、これくらいに。

それにしても、共通のフレーズだとは思いませんか。

この「なんで?」はこれからも頻繁に出てくると思いますよ。

5の問題だって、人口の多い某国はそう思っているでしょうね。

だって歴史的に考えると、あのイギリスが工業革命を行っている頃なんて、石炭ですからバンバン二酸化炭素出していたでしょうから。

 

所で、上記の言葉を弱冠変えるだけで、別の意味合いを持ってきます。

 

「他はやってるのに、なんで? なんでオレ(私)のとこだけ見つかるの? めちゃめちゃ損じゃん!」

 

こうしたら、一連の食品の偽装問題になっちゃいますね。

ちょっと気の重くなるネタになっちゃいましたね。 (-.-;)

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2008.07.09  (愚者+賢者)=?

なんか数式のような表現です。

「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」というのはビスマルクの言葉だそうです。

しかし実際のところ、ビスマルクは「政治家の仕事は歴史から学び、それを今の政治に生かすことだ」といっただけで「愚者は経験から学ぶ」とはあとからつけたされたのだそうです。

歴史から学ぶことは難しいと思います。

なぜならそれが適切な道かどうかまではわからないからです。

 

私は個人的にはこの言葉が好きなほうではありません。

かといって、嫌いというわけでもありませんが。

ある一面しか表現していないと思うからです。

 

人間の行動なんて、そんな簡単に割り切れるものではないと思っているからです。

 

この「賢者」は現代風に言えば、いわゆるマニュアル人間にもなりかねません。

経験することを愚者と呼んでいますが、誰でも最初は経験しないとわかりません。

時には、痛い目にあわないとわからないことだってあります。 

 

勿論、殺人や傷害など経験してはいけないことがありますから、それを「賢者的に」学ぶことは必要だと思います。このようなことを行えば、これは勿論「愚者」です。

 

個人的にですが、この言葉のあとに補足したいのです。

生意気なことであり、罰当たりであることは重々承知しております。

 

「あるときは愚者になり あるときは賢者になる

それを学ぶのが人生である 」

 

「経験」も大切、「歴史」も大切ということですね。

人間はだれでも(愚者+賢者)だと思うのです。

その割合に個人差があるのでしょうね。

まさにブレンドコーヒー?です。

 

前にも書きましたが、サマセット・モームが彼の回想録「サミング・アップ」で似たようなことを書いています。

 

「人間について、もっとも私を驚かせたのは、彼らが矛盾に満ちているということだ。首尾一貫した人間など、ただの一人もお目にかかったことはない。

まったく相容れない諸性質が同一人物の中に存在し、それでいて、もっともらしい調和を生んでいるのには驚かざるをえない。」

 

ここにつながっちゃったんですね。

 

もっとも、私自身は日ごろから愚者とか賢者とかはあまり考えていません。

愚者にしても、賢者にしても、なにをもってそう判断するのかという推し量るものは何もないからです。

(^_^;)

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2008.07.01  自灯明  法灯明

世の中の 人は何とも言わば言え 我が成する事 我のみぞ知る

 

これは坂本竜馬が作った歌と言われています。

私も好きな句です。

 

さすがは竜馬だと思いますが、実はこの歌が書いてある記事で、最近気になる事がありました。

 

今年3月、土浦8人殺傷事件の容疑者が中学校卒業文集でこの歌を書いているのです。 これはある意味ショッキングな記事でした。

 

「自分がやること、考えていることは、誰もわかってくれない。」という発想までは、誰でも通過することだと思うのですが、問題はそこからの進み方です。

前の日記の3 いくら努力しても伝わらないものだから、伝える必要も無い。自分勝手、自分本位でよいという発想です。

 

「どうせわからないから」と、人とコミュニケーションをとることを逃げています。

その一方で、自分の考え方を拡大させていきます。

しかし、「個」を過剰に発展させていくと必ず周りとぶつかってしまいます。

 

今は「わからないからこそ、人と接するようにしていく」ことができないというか、下手な人が多いような気がします。

その結果、メールが氾濫していきます。 相手と会わずに事が済みます。

 

この、「人はわからないものだ」という考えからの分岐点は、たとえば包丁の使い方と同じじゃないでしょうか。

ちゃんと料理に使うのか、殺傷目的に使うのかでまったく別の世界になってしまいます。

自分の考え方を守るためなら、何をしてもよいというのでは、もう争いの世界、修羅の世界です。

 

わからないもん同士なのだけど、だからこそお互いを見つめる。

たとえ100%でなくてもいい。

すこしでも、お互いがつながれる接点を見つけよう。

そこから違った世界になっていくことも可能です。

 

お釈迦様は、亡くなる前に弟子たちに「自灯明 法灯明」と言ったと書かれています。

これは弟子たちに「私を頼りにするな。自分自身を生きる拠り所にしろ」と伝えたかったのだとおもうのですが、それだけではありません。その後に「法も拠り所にしろ」とも言っているのです。

自分を拠り所にするだけでは、間違えば自己中になってしまいます。

では「法」ってなんでしょう。

私自身は、「人間は社会で生きていく以上一人じゃないのだから、周りの人ともうまくやっていけよ」と言いたかったのだろうと、勝手に意訳しています。 

 

この人生はたった1回しかないのです。

せっかくこの世に生まれてきたのです。

「人間」として、「人の間にいる者」として、学ばないともったいないと思うのです。

 

でも、書いていて思います。やっぱ、結局これも「欲」ですね。(^_^;)

この世には、いろんな「欲」があっていいのです。

 

妄想じみたことを書いていたら、ふと気がつきました。

今年ももう半分を超えたのですね。 

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2008.06.30  名前の意義について

論文のような題名ですね。(^_^;)

アーシュラ・クローバー・ル=グウィンは、著作「ゲド戦記」シリーズで「名前」についてシリーズの最初の頃はそのものを象徴する非常に重要なものとしています。

ですから、「ゲド戦記」の中での登場人物は自分の名前を語るときは慎重です。信頼できる人にしか教えません。

それ以後のシリーズの内容にかかわってくるのでこれ以上は詳しく書きませんが、非常に象徴的なことに感じました。

 

私は「名前」は「そのもの自体」ではないので、大きな意味は持てないと思っています。

ただ、区別するためとある程度の情報伝達に役立つことにあるのだろうという感じです。

固有名詞は区別に役立ちますが、その言葉でそのもの自体の情報を正確には伝達できません。

抽象名詞にいたっては、かなり人によって受け取り方が違ってきます。たとえば「海」という言葉でも、その言葉から想像する内容はかなり個人差があるでしょう。

さらに形容詞や副詞を付け足していったとしてもやはり限界があるのです。その形容詞自体の意味すらも解釈に個人差があるからです。

 

だから、たとえこちらがいくら表現しても、伝えたい情報を100%伝えることは不可能なのです。

しかし、実はそこから先が問題なんだと思います。

1 伝わりにくいのだから、できる範囲で伝えようと努め、また情報を精度高く得るように努める。

2 いくら努力しても伝わらないのだが、ある程度の信頼性を把握し、こんなもんだと思っておく。

3 いくら努力しても伝わらないものだから、伝える必要も無い。

 

多くの人が行っているのは1や2だと思いますが、一部の人は3の状態なのでしょう。 この続きはまた次回。

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2008.06.24  人生に意味はあるか

ダイレクトな題名ですね。

最近思っていることです。

この人生に意味があるのか。

原点に戻っちゃいました。

私自身は、人生に意味がないとは思いたくないという意味?でスピリチュアルな本や宗教に関する本もたくさん読みました。

私の中では、因果応報というか、周りの人のことも気遣いながら一生懸命に生きている人と、わがままに自分のことだけを考えている人を同レベルにはしたくないという自分の勝手な思いが強かったせいもあります。

 

昨年も同じネタで書いていました。

今読むと、私なりに熱いですね。

 

今は、むしろ静かな感覚で感じます。

人生には意味が無いと。

結局、どの人も同じなんじゃないか。

脳の中での思考が右往左往させているだけ。

 

言い換えれば、人生の価値は皆同じ。

ケンカしようが、傷を舐めあおうが、価値は同じです。

ただ、その人の中での解釈は違うでしょうけど。

 

その価値観のレベルをゼロに設定しただけかもしれません。

ただし、般若心経のごとく「無」にも意味を持たせるのであれば「ある」になります。

だから、「ある」と「なし」を難しく考えなくてもよいのです。

言っておきますが、別に人生を捨てたわけでもありませんし、「今」を前よりも大切にしています。

 

ただ今では、前よりもサマセット・モームの書いた

『人生には何の意味もなく、「ペルシャ絨毯」の織匠が自己の審美感の満足のために模様を織るのと同じように、人は自分の好みによって人生模様を織っていけばよい』

がわかる気がしています。

あくまでも「気」ですが。f^_^;

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2008.06.10  「背負い」投げ

なんちゅうタイトルでしょうね。 

この世に生まれてきたからには、この世で生きていかねばなりません。

これは逃げられない。

「人生」とは辞書には

(1)人間がこの世に生きている期間。人の一生。

(2)人間がこの世に生きていくこと。

と書いてあります。

 

生きていく以上、自分の生き様と正面から向き合うことが必要です。

これを「(人生を)背負う」と表現しました。

あんまり「責任」という言葉は使いたくない。

まず最初にすることは、「人生を背負うことが必要だ」と知ること。

自分の人生ぐらい、自分の意志で見届けましょうよ。

そして、次の段階では「しなくてはいけない」というか、「必要」という事を意識しなくてよいと知ること。

ただ、「人生を背負う」だけです。

 

そして、その次の段階は、おそらく推定ですが「背負う」も意識しなくても良いと知ることだと思います。

自分の人生が「有る」です。

 

元に戻ったようですが、「背負う」を経た後は違うんです。 見た目はたとえ同じでも。

先に言っておきますが、論理的には説明できかねます。 (^_^;)

 

有るのは「今」だけなんです。

人生は「今」を1%とすれば、99%はもうすでに「過去」です。

脳の中に、「自分の人生」という「過去ファイル」が随時上書きされているだけなんですね。 余談ですが、このファイルはかなりいいかげんですね。 自分の都合で勝手に編集している。

 

まあ、どちらにしても自分の人生は「今」だけであり、ほとんど大部分は「有った」という過去のもので占められているのです。

だから、上記の表現も正確には「自分の人生のほとんどの部分は過去に有っただけ」になりますか。

 

自分の人生を自分で背負えない人がいます。

自分の道を人に決めてもらおうとしている人です。

 

「背負う」ことを投げています。

これがホントの「背負い投げ」? (-.-;)さむ~

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2008.06.09  その時の味覚

私も家の炊事を全面的に行うことになってから、6年経ちました。

さすがに最初の頃よりはましになったと思います。

子供たちもうまいといってくれます。

もっとも、身内であることから義理で言ってくれていることと、味覚が慣れてくれたことが大きな影響を及ぼしていると思いますが。

f^_^;

私の料理の特徴は一言でいうと、「アバウト」

方向性はちゃんと持っていると思いますが、調味料の量などはかなりアバウトです。

ですので、その都度味が微妙に違います。

勿論ありえませんが、店には出せません。一定の味が作れませんから。

 

でも、このことからも学びました。

 

「一期一会」

 

今作っている料理の味は、もう二度と味わえないのです。 その時の味を楽しむことですね。

まずければまずいなりに。(^_^;)

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2008.06.03  「美しい」と言った瞬間に

私の好きな漫画に「ブッタとシッタカブッタ」があります。

4コマ漫画ですが、深いので侮れませんよ。

この漫画で印象に残っているのがあります。

ブッタと凡人のシッタカブッタが夕日を見ています。

シッタカブッタが「夕日が美しい」と言いました。

するとブッタが「その言葉を言っていいのか。 美しいと言ったとたんに、美しくないものも生まれるぞ。」といいました。

 

結局、そのものを表現する形容詞は、必ず反対のものも生み出しているのです。

これは、必然的にそうなってしまいます。

では、それがいけないのか?

ブッタはそういうことをいいたいのではないと思います。

 

ただ、「美しい」という言葉の裏側には「美しくない」も有るのだということを知っておけということだと思います。 それを「智慧」というのでしょうね。

その人の表現はあくまでもその人の「表現」ですから、他の人の「表現」ではありません。

また、表現は「翻訳」ですから、いくらでも存在するんです。

 

そういう意味では真理は無数にあることになります。

 

だって、表現した瞬間に「違うもの」に変換されるのだから。

だからそんな表現で迷う必要はない。 好い加減でよいのですね。

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2008.05.27  正しいこと? 良いこと?

誤解を招くかもしれませんが、私は自分が「正しい」とか「良い」とは思わなくなりました。 勿論、逆に「正しくない」とか「悪い」と考えているのでもありません。

これについては、周りの人たちの考えに対しても同じです。

全て相対的なんだろうと。

ただ、その人の立場で考えたというだけ。

何を唐突に?と思うかもしれませんね。(^_^;)

わかりやすく言うと、阪神ファンはいくら正論的な説得があったにしても巨人ファンにはなれない。 とくに、今は強いですがもう何年も前の最下位常連だったころでもファンだった人間は。(^_^;)

そんなもんなんです。

つまり、阪神側にも阪神から見た正論があり、巨人側にもそれは同じことなんです。 でも、対戦すれば真逆なのですよ、勝敗なんですから。

そう考えれば、自分の考えと違う人がいて当たり前なんですね、立場が違うのですから。

 

私は、最近はカウンセリングの時に、自分が判断して行うことが可能だと思ったことを説明するように努めています。

また、事前に予想される術後経過についてはできるだけご説明するようにしています。

そうやっていても、予想外のことが起こる可能性は当然否定できませんが、かなり確率は低くできると思います。

 

おそらくですが、私のカウンセリングは面白くないでしょうね。

ホクロは1回では取れないと言うし、シミも1回では取れずに複数回のレーザー治療が必要となる可能性もいいますから、なんと腕の悪い医者だと思うかもしれません。

しかしこのことは、私にとっては自分が26年間の医師経験からくる現実なんです。 ようやく、自分にとって等身大に近い説明になってきたと思います。

でも、まだまだという気持ちはあります。

これが私にとっての「欲」なのでしょうね。

 

今の私には、自分のカウンセリングが「正しい」とか「良い」という判断はしていませんし、できないのです。

はっきりとはわかりませんが、これからもどんどん変わっていくでしょう。

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2008.05.26  顔立ちから性格がわかるか

顔立ち、その形態的な特徴と性格とはつながりがあるのでしょうか。

言ってみれば「人相学」といえるかもしれません。

私はまだ仮説ですが、つながりがあると思っています。

逆に言うと、顔貌からその人の今世における人生の目的というか学ぶべきことがわかるのではないかと思っています。

ただ、こんな顔はこんな目的、ってわかるわけではありません。

そんな単純なものではないということも承知しています。

でも、何かあると感じて仕方ないのです。

私なりにたくさんの人と出会って感じていることです。

この「人生の目的」ですが、大きな柱は変わらないと思います。

しかし、細かい事項はその時その時において変化していくと思います。

性格判断などで見られるような、イエス・ノーで答えていくとそれぞれの方向に進んでいくようなものです。

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2008.05.12  不思善 不思悪

前回は利己主義をテーマに書きましたが、そもそも「自分のため」というのは自然な発想です。

生物は基本的に自分の生存を優先させています。
 

ただ人間の世界では、「度」を越しているのが問題なんです。

「人間」という言葉を見てもわかるように、生物学的にヒトである生き物が「人間」であるため人は「人と人の間」にいなければなりません。ということは、自分の周りに他の人たちが存在する共存共栄の世界であるはずです。

だから、周りの人たちの不利益をなんとも思わずに自分の短絡的利益だけを考えるということは、共存共栄を難しくします。

ある程度は御互い様という歩み寄りが必要になってきます。 

今「度」という単位?を書きましたが、この「度」はそのときその時によって変化します。

この状況によって変化する「度」に対応して行動することが「空気を読む」になるのでしょうね。
 

今日は「相対的」というテーマです。

般若心経にも「不垢不浄」「不増不減」など形容詞による比較を否定しています。

他にも「善」と「悪」、「良い」と「悪い」など日常によく使っていますね。
 

このような形容詞の差は本当に有るのでしょうか。

これはその人がその人の立場で考えていることによって決まってしまいます。
だから絶対的なものじゃありません。

たとえば、昔のアメリカ映画です。ハリウッド全盛の頃にはスターを使っての西部劇が数多く作られました。

私もジョン・ウェインやゲーリー・クーパーは大好きです。 

その時に、まず設定で決まっていたのが「騎兵隊に象徴される白人側」は「善」で「インディアン(先住民族)」は「悪」というパターンでした。もっとも、映画のほうでも、1960年くらいからは、あまり先住民族を悪者扱いにしない映画も作られるようになってきました。)

しかし、そもそも先に住んでいたのは先住民族の方たちです。後からヨーロッパの人たちが押し寄せてきた。

これはもしも先住民族の立場からストーリーを作ったとしたら、まさにHGウェルズの宇宙戦争と同じじゃないでしょうか。

先住民族が人類で、襲撃するエイリアンがヨーロッパから来た人々です。

マヤ文明を滅ぼしたスペイン軍なんて、そのものじゃないでしょうか。
 

見る立場が変わればこうも違うもんなんです。

人間の立場だって地球全体から見れば他の生物と同じというか、そんなに偉いもんじゃないよという発想が昔の小説にありました。

 
スイフトの「ガリバー旅行記」です。

これは人間の立場を他の生物が見た場合にどうなるかというメッセージですね。

小さい人間から見れば人類はモンスターですし、巨人から見れば人間も小さな虫と同じです。

また知性があるからといっても、ひょっとしたら馬のほうが賢いかもしれません。多分そうでしょうね。

さらに空中に住むほどの科学を持っている人間の危うさも描いています。

 

やはり現代でも愛読されるような古典はちゃんとメッセージを持っているのですね。

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2008.05.09  超利己主義 (・_・)エッ....?

「利己主義」と聞くと、あんまり良くない印象を受けると思います。

辞書でも「自分の利益を最優先にし、他人や社会全般の利害など考えようとしない態度。身勝手な考え方。エゴイズム。自己主義。」とあります。

一方、利他主義というのがあります。これは辞書によると「自分を犠牲にしても他人の利益を図る態度・考え方。愛他主義。」ということですが、まさにマザー・テレサですね。 これは自分にとっては正直難しい。(^_^;)

 

利己主義の話に戻しますが、自分の利益という定義も問題になりそうです。

自分にとっての「利益」はなんでしょうか。単にお金があるとかでもないと思います。

また、同じように「得」も最終的に本当に「得」であるのかなんて最初からはわかりません。 一見「災い」のようでも結局「福」になることはことわざにも有るくらいですから。

 

というわけで、最終的に何が自分にとって「利益」「得」や「福」になるのかが最初はわからないのが人生なんです。

だから、面白いともいえるし、大変と思えば大変かもしれないし、徳川家康が言ったように人生を重荷と思えば重荷になるのでしょうね。

どう認識するかは自由ですが、重荷と思って楽しいというM的な?人は少ないと思います。

 

多分、自分の人生に降りかかってくることすべてを結局は自分にとっての「福」になるものと考えて受け入れていくことが、「平安」につながるのではないかと思っています。

そのためには日々、目の前のことに真正面から取り組む必要があります。

良い加減を保ちつつ、前向きに取り組みます。

 

「全てのことが、結局は自分のため」という考えも、ある意味では「利己主義」と思います。

少なくとも自分の心を平安に導くことは可能ではないでしょうか。 というわけで、表題になっちゃいました。f^_^;

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2008.04.26  姿勢と心のあり方

姿勢や立居振る舞い、動作が心に及ぼす影響は非常に大きいと思います。

逆に言うと、姿勢を意識することで心にもよい影響を与えることができます。

私の中での仮説ですが、あながち荒唐無稽な話ではないと思っています。

 
まずシャンとまっすぐに歩くことです。

 

これを意識していくことで、目的意識を明確にすることができると思います。

イチローやタイガー・ウッズの歩き方って、本当にシャンとしていますね。

逆に、野球の日本代表チームの監督である星野さんですが、中日の投手だった現役時代は背筋がまっすぐだったように記憶しています。しかし、最近は若干ですが猫背気味の感じがします。

これはやはり、ご本人の責任感からも、かなりのプレッシャーを背負われていることが原因と勝手に思っております。くれぐれも健康に気をつけていただきたいです。

 

それから、足の向きですが、がに股や内股になっているようなら、まっすぐに足の長軸を歩く方向に向けるように意識して歩きます。 膝のお皿を歩く方向にまっすぐ向けるようにすれば、足先も向きます。

がに股は、その性格がどちらかというと外向的な傾向を意味していると思います。逆に内股は性格が内向的な傾向を表していると思います。「外面が良い」や「内弁慶」は、その代表例です。

 

また、O脚の人は膝の内側を寄せて歩くように意識します。O脚はがに股に関係が深いです。一方X脚は内股に関係が深いです。

逆にX脚の人は膝の間に柔らかい枕を意識して歩きます。

 

足先の向く方向の意味ですが、目的に向かっていくプロセスでの性格的な傾向を意味していると思います。歩く時の真正面、つまり前方が「目的」に相当します。

これはできれば歩く時の「前方」である正面に対してまっすぐ足先が向く「ニュートラル」が良いのではないでしょうか。 

このように足先の方向を意識して、目的意識をぶれないようにします。

 

足の裏に感じる重力ですが、足の裏のどこか局所にかけるのではなく均等にかかるイメージが良いと思います。 もしも局所的にかかるとしたら、土踏まずからかかとの辺りが重要です。

身体のあり方を意識すれば、脳が活発化します。

そして心にそのあり方をアウトプットします。

それにしても、人間の脳は余計なことを考えさせますね。f^_^;

だから今の社会ができているのですけど。

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2008.04.25  心と身体

今日はダブルで書いています。 

 

心と身体 この二つは非常に密接な関係であり、二つで一つです。

一つであり二つ

半分だけど全部、全部だけれど半分

切り離しては考えられない。

その身体があるから、その心がある。

その心があるから、その身体がある。

しかし、捉え方は様々なようですね。

 

所で心と体とではどちらが優位なのでしょうか。

対等なレベルなのでしょうか。 身体を動かそうとする意思は心側にあります。

しかし、その心に知覚をおくるのは身体側にあります。

言い換えれば現場と本部の違いでしょうか。

 

現代人はどうも心側に重きを置いているようです。

私を含めてですが、どうも心が欲することを優先し、身体にその内容について従わせています。

どういうことかというと、夜更かし、深酒、喫煙、肥満、やせ、その他の自虐的行為など身体に無理を強いることを、わかっていてもしてしまうという傾向が有るからです。

昭和の時代は、「わかっちゃいるけどやめられない」と歌った人もいるくらいですから。

私が最近強く思うことなのですが、もう少し身体側の言い分も聞かないと、と思うのですね。

よ~く耳をすましていると、何か言っていると感じるのです。

「現場のことも考えろ」と、織田裕二のように(たとえ似ていなくても)叫びましょう。

レインボーブリッジを閉鎖してはいけません! (^_^;)

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2008.04.25  満点は玉虫色

人間が決める「満点」はいいかげんなものだと思っています。

何を持って「満点」というのかが曖昧なこともあるからです。

そう思ったのは、かなり古い話ですが1976年のモントリオールオリンピックで、体操のコマネチが10点を連発した時です。

私は、自分の定義からは「完全、完璧は存在しない」と思っています。

人間のすることだから、どこかにたとえ細かいことでもミスというか問題点はあるものだと思っているからです。

ただ、「限りなく満点に近い」という状態があるとも思っています。

これも私が医者として駆け出しの頃のことですが、ある先輩の先生の手術についていた時のことでした。

皮膚を縫っているときに、糸が切れたのです。

その時に先輩の先生は「くっそ~、完璧だったのに」と言ったのです。

その頃の私は「ふ~ん」と何も感じずに、そんなもんなんだなあと思っていただけなのですが、今では私なりの考えがあります。

それは、「もしもその縫合が完璧だったのなら切れなかったんじゃないの?」という考えです。

でも、完璧に近かったとは思っています。すごく上手な先生でしたから。

私は根本的に「100%という状況は無い」という考えですので、逆に言うと「どんなに低い確率のことでも、起こるときには起こる。」とも考えているのです。

そういう考え方ですので、「このホクロは1回で取れますか?」と聞かれても「必ず1回で取れるとは限りません」と言ってしまいます。

大まかな目安としての確率みたいな表現はできますが、降水確率と同じですね。

これは、誤解を招くことがあるかもしれませんが、実は私なりの誠意なのです。

(^_^;) 

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2008.04.18  個性という作品

その人の顔、身体、立居振る舞い、全てがそれまでその人が出産というスタートから、その人なりに経験してきたこと全てによって積み重ねられた集大成であり、言い方を変えれば一つの「作品」です。

これを「個性」といいます。

これは、完成することがあるのでしょうか。

そう考える以前に、「完成」が何を意味するのかを考えないといけませんね。

人によっても「完成」の定義は違ってくるでしょう。

私自身、自分の定義からは「完成」はないと思っているほうです。

この作品は、どんどん形が変わっていきます。

途中で良い様に感じていても、悪く感じてしまうかもしれないし、逆に悪いと思っていたことが、結果的に良かったりします。

とりあえず、死ぬ直前がその人の集大成としての作品という事でしょうか。

大切なことは、その時にその形がどんな作品であっても、それを受け止めることでしょうね。

そしてその時までやっていくことで、私が重要だと思っていることは「焦らない」事です。

兎角、現代の多くの人間は結果を早く求めたがり、急ぎたがる傾向がありますからね。

これからしばらく、日記で心と身体のことについて書きます。

ちょっと考えが溜まってきたもので。(^_^;)

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2008.04.09  桜とツツジ

桜の花の魅力について私なりに考えました。

前から、何か他の花と違う気がしていたのですが、ふと気がつきました。

普通、一般的に子供が木を描くとしたら、木の幹を描いて、枝を描いて、葉を描きますよね。 ところが、桜には花が咲いている時には「葉」がないのです。

(・_・)エッ....? 

「そんなの当たり前じゃ」と言われれば、それまでですが、これがみんなに感銘を与えるインパクトの要素の一つと思います。

まったく葉のない枝に、冬の間に貯めていたエネルギーをバァーっと一気に吐き出す感じです。

そこに、華麗さと同時に刹那的なはかなさも感じさせるのでしょう。

「これからあったこうなるで~。みんな、シャンとしいや~」とハッパ?をかけます。

 

一方、これから5月にはツツジやサツキの花が咲く季節になります。

もっとももう咲いているところもあるでしょうね。

  ツツジの花は、いわゆる「フル装備」の花です。 だってちゃんと葉が茂っていますから。

「赤」と「緑」のコラボは、鮮やかさと芳醇さを感じさせます。 たくさんあると圧巻ですが、桜の花とは違う魅力です。

 

桜もツツジもどちらも素晴らしい。

これがまさに「柳は緑、花は紅」ということですね。

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2008.04.08  「使い込む」派と「先見の明」派

「使い込む」派と「先見の明」派についてです。

勝手な命名なので、わからないですね。f^_^;

医者の中でも、この傾向があるように思っています。

「使い込む」派は、お金ではありません。(^_^;)

今自分が使用している医療器械を使いこなすことです。

当初の使用法以外にも何か応用できないかと言うことを常に考えています。また、従来の使用でもコツというかより有効なやり方を考えます。

これは医療機器だけでなく、埋没法などの手術手技も同じです。

私自身はこのタイプです。

一方、いろいろな器械や術式に目を向けることが好きな先生もおられます。

別に気が多いという意味で行っているのではなく、「先見の明」的能力がより抜きん出ているという意味で使用しています。

美容に関する医療でもここ数年でもいろいろな手技や器械が市場に出ています。しかし、その中にもいわゆる「もひとつ」であったりするものも少なくないと思っています。

中には本当は良いのだけれど、現時点ではまだ理解されていなかったり、マニュアルが確立されていないなどが原因で流行らないものも含まれていると思いますが、「先見の明」派はこの嗅覚が優れているのです。

医療に詳しいだけでなく、ビジネス感覚も必要かもしれません。

私も少しはこの嗅覚があると思っていますが、どちらかというと使いこなす方が性に合っています、というように思っています。

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2008.03.29  母親と似ていると思った時

親と似ていると言われた時には、「肯定したい派」と「否定したい派」の二通りあるのではないでしょうか。

「どっちだっていい派」も入れれば3つになりますが。(^_^;)

今回の「似ている」は顔のほうを意味していますが、落語などにもこの話題は登場します。

昔は母親が子供に「勉強しないとお父さんのようにはなれないわよ」と言われていたのが、今では「勉強しないとお父さんみたいになるわよ」と言われたりするという枕ネタです。

こちらは顔より性格というか生き様でしょうかね。

他にも、まじめで通している旦那が、実は無茶苦茶遊び人で、遊び人の息子と色町のお茶屋でばったり会うという「親子茶屋」というネタもあります。

こんなとこでネーちゃんとイチャイチャしている最中に息子と出会ったら、すごいでしょうね。 もっとも奥さんと会うよりはマシですか。

おっと、今回はこんなネタではなかったのです。 f^_^;

 

私は自分では顔はあまり母親に似ていない方だと思っていました。

ただ、最近鏡を見ていると目の辺が似ているかなと思うようになったのです。

ようやく、と言うべきでしょうか。

また、自分で似ているかどうかを評価するのと、他人から見るのとでは当然違っているでしょうね。

私も娘を連れていると、しばしば娘を見て「お父さんに似ているね」と言われますが、娘には気の毒です。

(^_^;)

私の評価はちょっと違うのですがネ。

親子の似具合。

これには、人間の数だけ様々な思いがあるのでしょうね。

親の生き様をどう評価しているかも、その感情に影響していると思いますし。

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2008.03.28  人生高飛び込み

生活が苦しいのか楽しいのかは人様々だとは思います。

楽しいと思って生活しても、苦しいと思って生活しても、そりゃあ自由です。

この感情は、どちらにしても単なる「自分の思い」だけなんです。

「かゆい」という気持ちと同じ。

 脳がそういう感情をアウトプットしているだけ。

だとすると、この1回の人生を、同じアホなら踊りゃな損損という感じで、楽しまにゃあ損だと私は思います。

別にお葬式の時に楽しめと言っているのではありません。

そりゃぁ~ ショッキンぐ~です(^_^;)

ただ、「その瞬間」の中に本気で飛び込めと言いたいだけです。

私はやったことはありませんし、また今の